vと呼ぶものさえが、ニュートンの物理学によって示されるような科学的体系に近いものを指していた。バークリやロックが問題[#「問題」に傍点]とした「認識論」と、批判主義が立つ立場[#「立場」に傍点]としての認識論との、重大な相違の一つは之である。前者は認識を一つの人間的能力[#「人間的能力」に傍点]としてしか取り上げない、之に反して後者は、認識を、科学的認識を、即ち要するに科学を、認識として取り上げる。ここでは科学という一つの文化[#「文化」に傍点]が問題なのである。
批判主義は認識論の名に於て、即ち科学的認識の批判の名に於て、何をなしたか。夫はこの立場からすればおのずから科学の批判[#「科学の批判」に傍点]でなければならないが、科学に於て批判されるべきものは科学的認識の妥当性――論理的な必然性と客観性――の権利づけ[#「権利づけ」に傍点]であった。認識論はそうした意味で論理学[#「論理学」に傍点]となる(カントの先験的論理学)。――だが科学の権利づけはおのずから科学に於ける様々な意味での方法の[#「方法の」は底本では「方向の」]検討に導かれざるを得ないだろう、認識論は方法論[#「方法論」に傍点]となるのである。科学的認識――夫はこの立場からすれば取りも直さず科学自身である――の方法を検討することは併しながら、要するに一口で云えば科学即ち[#「即ち」に傍点]科学的認識の基礎の検討に外ならない。批判主義=認識論は科学が立ち而も科学自身は自覚していない科学の根柢を鮮明にしてやらねばならないと考える、それが科学=科学的認識の基礎づけ[#「基礎づけ」に傍点]と呼ばれている。
この場合、科学と科学的認識とがその本質に於て同一視されていることを何よりも吾々は注目しなければならない。と云うのは、科学は何よりも先に、その認識の方法如何によって特色づけられねばならないと仮定されているのである。科学はその対象よりも先にその方法の内に自分の本質を見出さねばならない。――科学は実在に対する社会的人間の労働による獲得物でなければならないのに、ここでは実在という対象は[#「対象は」は底本では「対照は」]抜きにして方法という観念の獲得過程だけが尊重される。方法は客観から離脱した限りの主観[#「主観」に傍点]の内で片づけられる。その意味に於て初めて、批判主義は方法論に帰着したのである*。
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