Iに解決出来る。静態――科学の超時間的な基本構造――としては数学は凡て[#「凡て」に傍点]形式論理を方法とする。だが動態――歴史的前進――としては形式論理を方法とするかそれとも又弁証法的論理を方法とするかは一層自由だと云っても好い。と云うのは前者によって数学の新しい領域は恐らく開拓されないだろう、之を開拓し得るためには是非とも後者に依らなければならないだろう。どれが数学の正しい「方法」であるかは、そこで初めて明らかになる。
[#ここで字下げ終わり]
 批判主義の科学批判に於ける方法[#「方法」に傍点]の概念は、元々認識の妥当性・論理性・から引き出された。それは「真理」の問題に関わっていた。処が真理とは少くとも科学を歴史的に進歩[#「歴史的に進歩」に傍点]させるものでなくて何であったか。一切の真理は意識の進歩・前進の真理である。真理は進歩の結果であり又原因なのである。それで本当の方法とは外でもない、云わば真理と進歩[#「真理と進歩」に傍点]との相乗積、云い換えれば、所謂「論理」と歴史[#「歴史」に傍点]との相乗積、だと云って好い。――批判主義は科学の方法を併し、単なる「真理」又は「論理」によってしか理解せず、之を歴史的進歩の過程との相乗積に於ては理解しない。科学に於ける「論理」と歴史とはかくて全く絶縁されて了う。だがそういう「論理」は抑々論理ではないのである。
 だから批判主義は科学という一つの文化の批判を目的としながら、結局之を歴史的[#「歴史的」に傍点]な存在として、即ち又社会的[#「社会的」に傍点]な存在として、取り扱うことが出来ない。そのことは併し外でもない、之を文化として取り扱い得ないということなのである。批判主義――文化の批判――は文化を文化としては批判し得ない。処でそれをなし遂げ得るものは正にイデオロギー論でなければなるまい。だがその時は文化も亦もはや単なる「文化」ではない、文化とは実はイデオロギー[#「イデオロギー」に傍点]なのであった。

 イデオロギー論による文化(イデオロギー)の科学的批判に於ては、まず第一にイデオロギー(文化)がその「論理」と歴史(社会――やがて階級)との相乗積の具体性の下に取り上げられる。それが「イデオロギーの論理学」の問題だったのである。そして之が更に第二に社会に特有な一つの機構の下に――アカデミズムとジャーナリズムとの構造
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