やらの一|人《にん》なり。出世の初め、今は故人となりし武男が父の世話を受けしこと少なからざれば、今も川島家に出入りすという。それも川島家が新華族中にての財産家なるがゆえなりという者あれど、そはあまりに酷なる評なるべし。本宅を芝桜川町《しばさくらがわちょう》に構えて、別荘を橋場の渡しのほとりに持ち、昔は高利も貸しけるが、今はもっぱら陸軍その他官省の請負を業とし、嫡男を米国ボストンの商業学校に入れて、女《むすめ》お豊はつい先ごろまで華族女学校に通わしつ。妻はいついかにして持ちにけるや、ただ京都者というばかり、すこぶる醜きを、よくかの山木は辛抱するぞという人もありしが、実は意気|婀娜《あだ》など形容詞のつくべき女諸処に家居《いえい》して、輪番《かわるがわる》行く山木を待ちける由は妻もおぼろげならずさとりしなり。
四の四
床には琴、月琴、ガラス箱入りの大人形などを置きたり。すみには美しき女机あり、こなたには姿見鏡《すがたみ》あり。いかなる高貴の姫君や住みたもうらんと見てあれば、八畳のまんなかに絹ぶとん敷かせて、玉蜀黍《とうもろこし》の毛を束《つか》ねて結ったようなる島田を大童《おおわらわ》に振り乱し、ごろりと横に臥《ふ》したる十七八の娘、色白の下豊《しもぶくれ》といえばかあいげなれど、その下豊《しもぶくれ》が少し過ぎて頬《ほお》のあたりの肉今や落ちんかと危ぶまるるに、ちょっぽりとあいた口は閉ずるも面倒といい貌《がお》に始終|洞門《どうもん》を形づくり、うっすりとあるかなきかの眉《まゆ》の下にありあまる肉をかろうじて二三|分《ぶ》上下《うえした》に押し分けつつ開きし目のうちいかにも春がすみのかけたるごとく、前の世からの長き眠りがとんと今もってさめぬようなり。
今何かいいつけられて笑いを忍んで立って行く女の背《せな》に、「ばか」と一つ後ろ矢を射つけながら、女《むすめ》はじれったげに掻巻《かいまき》踏みぬぎ、床の間にありし大形の――袴《はかま》はきたる女生徒の多くうつれる写真をとりて、糸のごとき目にまばたきもせず見つめしが、やがてその一人《ひとり》の顔と覚しきあたりをしきりに爪弾《つまはじ》きしつ。なおそれにも飽き足らでや、爪《つめ》もてその顔の上に縦横に疵《きず》をつけぬ。
襖《ふすま》の開く音。
「たれ? 竹かい」
「うん竹だ、頭の禿《は》げた竹だ」
笑いながら枕《まくら》べにすわるは、父の山木と母なり。娘はさすがにあわてて写真を押し隠し、起きもされず寝もされずといわんがごとく横になりおる。
「どうだ、お豊、気分は? ちっとはいいか? 今隠したのは何だい。ちょっと見せな、まあ見せな。これさ見せなといえば。――なんだ、こりア、浪子さんの顔じゃないか、ひどく爪かたをつけたじゃないか。こんな事するよりか丑《うし》の時参りでもした方がよっぽど気がきいてるぜ!」
「あんたまたそないな事を!」
「どうだ、お豊、御身《おまえ》も山木兵造の娘じゃないか。ちっと気を大きくして山気《やまき》を出せ、山気を出せ、あんなけちけちした男に心中立て――それもさこっちばかりでお相手なしの心中立てするよりか、こら、お豊、三井《みつい》か三菱《みつびし》、でなけりゃア大将か総理大臣の息子《むすこ》、いやそれよりか外国の皇族でも引っかける分別をしろ。そんな肝ッ玉の小せエ事でどうするものか。どうだい、お豊」
母の前では縦横に駄々《だだ》をこねたまえど、お豊姫もさすがに父の前をば憚《はばか》りたもうなり。突っ伏して答えなし。
「どうだ、お豊、やっぱり武男さんが恋しいか。いや困った小浪《こなみ》御寮《ごりょう》だ。小浪といえば、ねエお豊、ちっと気晴らしに京都にでも行って見んか。そらアおもしろいぞ。祇園《ぎおん》清水《きよみず》知恩院《ちおんいん》、金閣寺《きんかくじ》拝見がいやなら西陣《にしじん》へ行って、帯か三|枚襲《まいがさね》でも見立てるさ。どうだ、あいた口に牡丹餅《ぼたもち》よりうまい話だろう。御身《おまえ》も久しぶりだ、お豊を連れて道行きと出かけなさい、なあおすみ」
「あんたもいっしょに行きなはるのかいな」
「おれ? ばかを言いなさい、この忙《せわ》しいなかに!」
「それならわたしもまあ見合わせやな」
「なぜ? 飛んだ義理立てさするじゃないか。なぜだい?」
「おほ」
「なぜだい?」
「おほほほほほ」
「気味の悪《わり》い笑い方をするじゃないか。なぜだい?」
「あんた一人《ひとり》の留守が心配やさかい」
「ばかをいうぜ。お豊の前でそんな事いうやつがあるものか。お豊、母《おっか》さんの言ってる事《こた》ア皆うそだぜ、真《ま》に受けるなよ」
「おほほほ。どないに口で言わはってもあかんさかいなア」
「ばかをいうな。それよりか――なお豊、気を広く持て、広く。待てば甘露じゃ。今におもしれエ事が出て来るぜ」
五の一
赤坂|氷川町《ひかわまち》なる片岡中将の邸内に栗《くり》の花咲く六月半ばのある土曜の午後《ひるすぎ》、主人子爵片岡中将はネルの単衣《ひとえ》に鼠縮緬《ねずみちりめん》の兵児帯《へこおび》して、どっかりと書斎の椅子《いす》に倚《よ》りぬ。
五十に間はなかるべし。額のあたり少し禿《は》げ、両鬢《りょうびん》霜ようやく繁《しげ》からんとす。体量は二十二貫、アラビア種《だね》の逸物《いちもつ》も将軍の座下に汗すという。両の肩怒りて頸《くび》を没し、二重《ふたえ》の顋《あぎと》直ちに胸につづき、安禄山《あんろくざん》風の腹便々として、牛にも似たる太腿《ふともも》は行くに相擦《あいす》れつべし。顔色《いろ》は思い切って赭黒《あかぐろ》く、鼻太く、唇《くちびる》厚く、鬚《ひげ》薄く、眉《まゆ》も薄し。ただこのからだに似げなき両眼細うして光り和らかに、さながら象の目に似たると、今にも笑《え》まんずる気《け》はいの断えず口もとにさまよえるとは、いうべからざる愛嬌《あいきょう》と滑稽《こっけい》の嗜味《しみ》をば著しく描き出《いだ》しぬ。
ある年の秋の事とか、中将微服して山里に猟《か》り暮らし、姥《ばば》ひとり住む山小屋に渋茶一|碗《わん》所望しけるに、姥《ばば》つくづくと中将の様子を見て、
「でけえ体格《からだ》だのう。兎《うさぎ》のひとつもとれたんべいか?」
中将|莞爾《かんじ》として「ちっともとれない」
「そねエな殺生《せっしょう》したあて、あにが商売になるもんかよ。その体格《からだ》で日傭《ひよう》取りでもして見ろよ、五十両は大丈夫だあよ」
「月にかい?」
「あに! 年によ。悪《わり》いこたあいわねえだから、日傭取るだあよ。いつだあておらが世話あしてやる」
「おう、それはありがたい。また頼みに来るかもしれん」
「そうしろよ、そうしろよ。そのでけえ体格《からだ》で殺生は惜しいこんだ」
こは中将の知己の間に一つ話として時々|出《い》づる佳話なりとか。知らぬ目よりはさこそ見ゆらめ。知れる目よりはこの大山《たいさん》巌々《がんがん》として物に動ぜぬ大器量の将軍をば、まさかの時の鉄壁とたのみて、その二十二貫小山のごとき体格と常に怡然《いぜん》たる神色とは洶々《きょうきょう》たる三軍の心をも安からしむべし。
肱近《ひじちか》のテーブルには青地交趾《せいじこうち》の鉢《はち》に植えたる武者立《むしゃだち》の細竹《さいちく》を置けり。頭上には高く両陛下の御影《ぎょえい》を掲げつ。下りてかなたの一面には「成仁《じんをなす》」の額あり。落款は南洲《なんしゅう》なり。架上に書あり。暖炉縁《マンテルピース》の上、すみなる三角|棚《だな》の上には、内外人の写真七八枚、軍服あり、平装のもあり。
草色のカーテンを絞りて、東南二方の窓は六つとも朗らかに明け放ちたり。東の方《かた》は眼下に人うごめき家かさなれる谷町を見越して、青々としたる霊南台の上より、愛宕塔《あたごとう》の尖《さき》、尺ばかりあらわれたるを望む。鳶《とび》ありてその上をめぐりつ。南は栗《くり》の花咲きこぼれたる庭なり。その絶え間より氷川社《ひかわやしろ》の銀杏《いちょう》の梢《こずえ》青鉾《あおほこ》をたてしように見ゆ。
窓より見晴らす初夏の空あおあおと浅黄繻子《あさぎじゅす》なんどのように光りつ。見る目|清々《すがすが》しき緑葉《あおば》のそこここに、卵白色《たまごいろ》の栗の花ふさふさと満樹《いっぱい》に咲きて、画《えが》けるごとく空の碧《みどり》に映りたり。窓近くさし出《い》でたる一枝は、枝の武骨なるに似ず、日光《ひ》のさすままに緑玉、碧玉《へきぎょく》、琥珀《こはく》さまざまの色に透きつ幽《かす》めるその葉の間々《あいあい》に、肩総《エポレット》そのままの花ゆらゆらと枝もたわわに咲けるが、吹くとはなくて大気のふるうごとに香《か》は忍びやかに書斎に音ずれ、薄紫の影は窓の閾《しきみ》より主人が左手《ゆんで》に持てる「西比利亜《サイベリア》鉄道の現況」のページの上にちらちらおどりぬ。
主人はしばしその細き目を閉じて、太息《といき》つきしが、またおもむろに開きたる目を冊子の上に注ぎつ。
いずくにか、車井《くるまい》の響《おと》からからと珠《たま》をまろばすように聞こえしが、またやみぬ。
午後の静寂《しずけさ》は一邸に満ちたり。
たちまち虚《すき》をねらう二人《ふたり》の曲者《くせもの》あり。尺ばかり透きし扉《とびら》よりそっと頭《かしら》をさし入れて、また引き込めつ。忍び笑いの声は戸の外に渦まきぬ。一人《ひとり》の曲者は八つばかりの男児《おのこ》なり。膝《ひざ》ぎりの水兵の服を着て、編み上げ靴をはきたり。一人の曲者は五つか、六つなるべし、紫|矢絣《やがすり》の単衣《ひとえ》に紅《くれない》の帯して、髪ははらりと目の上まで散らせり。
二人の曲者はしばし戸の外にたゆたいしが、今はこらえ兼ねたるように四つの手ひとしく扉をおしひらきて、一斉に突貫し、室のなかほどに横たわりし新聞|綴込《とじこみ》の堡塁《ほうるい》を難なく乗り越え、真一文字に中将の椅子《いす》に攻め寄せて、水兵は右、振り分け髪は左、小山のごとき中将の膝を生けどり、
「おとうさま!」
五の二
「おう、帰ったか」
いかにもゆったりとその便々たる腹の底より押しあげたようなる乙音《ベース》を発しつつ、中将はにっこりと笑《え》みて、その重やかなる手して右に水兵の肩をたたき、左に振り分け髪のその前髪をかいなでつ。
「どうだ、小試験は? でけたか?」
「僕アね、僕アね、おとうさま、僕ア算術は甲」
「あたしね、おとうさま、今日《きょう》は縫い取りがよくできたッて先生おほめなすッてよ」
と振り分け髪はふところより幼稚園の製作物《こしらえもの》を取り出《いだ》して中将の膝の上に置く。
「おう、こら立派にでけたぞ」
「それからね、習字に読書が乙で、あとはみんな丙なの、とうと水上《みなかみ》に負けちゃッた。僕アくやしくッて仕方がないの」
「勉強するさ――今日は修身の話は何じゃッたか?」
水兵は快然と笑《え》みつつ、「今日はね、おとうさま、楠正行《くすのきまさつら》の話よ。僕正行ア大好き。正行とナポレオンはどっちがエライの?」
「どっちもエライさ」
「僕アね、おとうさま、正行ア大好きだけど、海軍がなお好きよ。おとうさまが陸軍だから、僕ア海軍になるンだ」
「はははは。川島の兄君《にいさん》の弟子《でし》になるのか?」
「だッて、川島の兄君《にいさん》なんか少尉だもの。僕ア中将になるンだ」
「なぜ大将にやならンか?」
「だッて、おとうさまも中将だからさ。中将は少尉よかエライんだね、おとうさま」
「少尉でも、中将でも、勉強する者がエライじゃ」
「あたしね、おとうさま、おとうさまてばヨウおとうさま」と振り分け髪はつかまりたる中将の膝を頡頏台《はねだい》にしてからだを上下《うえした》に揺すりながら、「今日はね、おもしろいお話を聞いてよ、あの兎《う
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