不如帰《ほととぎす》 小説
徳冨蘆花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)不如帰《ほととぎす》

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(例)一輪|勁《つよ》きを

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   (数字は、底本のページと行数)
(例)合※[#「※」は「丞」の「一」のかわりに「巳」、第4水準2−3−54、13−11]《ごうきん》
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   第百版不如帰の巻首に

 不如帰《ふじょき》が百版になるので、校正かたがた久しぶりに読んで見た。お坊っちゃん小説である。単純な説話で置いたらまだしも、無理に場面をにぎわすためかき集めた千々石《ちぢわ》山木《やまき》の安っぽい芝居《しばい》がかりやら、小川《おがわ》某女の蛇足《だそく》やら、あらをいったら限りがない。百版という呼び声に対してももっとどうにかしたい気もする。しかし今さら書き直すのも面倒だし、とうとうほンの校正だけにした。
 十年ぶりに読んでいるうちに端《はし》なく思い起こした事がある。それはこの小説の胚胎《はいたい》せられた一|夕《せき》の事。もう十二年|前《ぜん》である、相州《そうしゅう》逗子《ずし》の柳屋という家《うち》の間《ま》を借りて住んでいたころ、病後の保養に童男《こども》一人《ひとり》連れて来られた婦人があった。夏の真盛りで、宿という宿は皆ふさがって、途方に暮れておられるのを見兼ねて、妻《さい》と相談の上自分らが借りていた八畳|二室《ふたま》のその一つを御用立てることにした。夏のことでなかの仕切りは形《かた》ばかりの小簾《おす》一重《ひとえ》、風も通せば話も通う。一月《ひとつき》ばかりの間に大分《だいぶ》懇意になった。三十四五の苦労をした人で、(不如帰の小川某女ではない)大層情の深い話|上手《じょうず》の方《かた》だった。夏も末方のちと曇ってしめやかな晩方の事、童男《こども》は遊びに出てしまう、婦人と自分と妻と雑談しているうちに、ふと婦人がさる悲酸の事実|譚《だん》を話し出された。もうそのころは知る人は知っていたが自分にはまだ初耳の「浪子《なみこ》」の話である。「浪さん」が肺結核で離縁された事、「武男《たけお》君」は悲しんだ事、片岡《かたおか》中将が怒って女《むすめ》を引き取った事、病女のために静養室を建てた事、一生の名残《なごり》に「浪さん」を連れて京阪《けいはん》の遊《ゆう》をした事、川島家《かわしまけ》からよこした葬式の生花《しょうか》を突っ返した事、単にこれだけが話のなかの事実であった。婦人は鼻をつまらせつつしみじみ話す。自分は床柱《とこばしら》にもたれてぼんやりきいている。妻《さい》は頭《かしら》をたれている。日はいつか暮れてしもうた。古びた田舎家《いなかや》の間内《まうち》が薄ぐらくなって、話す人の浴衣《ゆかた》ばかり白く見える。臨終のあわれを話して「そうお言いだったそうですってね――もうもう二度と女なんかに生まれはしない」――言いかけて婦人はとうとう嘘唏《きょき》して話をきってしもうた。自分の脊髄《せきずい》をあるものが電《いなずま》のごとく走った。
 婦人は間もなく健康になって、かの一|夕《せき》の談《はなし》を置《お》き土産《みやげ》に都に帰られた。逗子の秋は寂しくなる。話の印象はいつまでも消えない。朝な夕な波は哀音を送って、蕭瑟《しょうしつ》たる秋光の浜に立てば影なき人の姿がつい眼前《めさき》に現われる。かあいそうは過ぎて苦痛になった。どうにかしなければならなくなった。そこで話の骨に勝手な肉をつけて一編未熟の小説を起草して国民新聞に掲げ、後一冊として民友社から出版したのがこの小説不如帰である。
 で、不如帰のまずいのは自分が不才のいたすところ、それにも関せず読者の感を惹《ひ》く節《ふし》があるなら、それは逗子の夏の一夕にある婦人の口に藉《か》って訴えた「浪子」が自ら読者諸君に語るのである。要するに自分は電話の「線《はりがね》」になったまでのこと。
  明治四十二年二月二日  昔の武蔵野今は東京府下[#この行はポイントを下げ、「昔の武蔵野今は東京府下」は地より11字上げ]
  北多摩郡千歳村粕谷の里にて[#この行はポイントを下げ、は地より7字上げ]
  徳冨健次郎識[#この行はポイントを上げ、は地より3字上げ]
[#改丁]

   不如帰《ほととぎす》

[#改頁]

  上 編

     一の一

 上州《じょうしゅう》伊香保千明《いかほちぎら》の三階の障子《しょうじ》開きて、夕景色《ゆうげしき》をながむる婦人。年は十八九。品よき丸髷《まげ》に結いて、草色の紐《ひも》つけし小紋縮緬《こもんちりめん》の被布《ひふ》を着たり。
 色白の細面《ほそおもて》、眉《まゆ》の間《あわい》ややせまりて、頬《ほお》のあたりの肉寒げなるが、疵《きず》といわば疵なれど、瘠形《やさがた》のすらりとしおらしき人品《ひとがら》。これや北風《ほくふう》に一輪|勁《つよ》きを誇る梅花にあらず、また霞《かすみ》の春に蝴蝶《こちょう》と化けて飛ぶ桜の花にもあらで、夏の夕やみにほのかににおう月見草、と品定めもしつべき婦人。
 春の日脚《ひあし》の西に傾《かたぶ》きて、遠くは日光、足尾《あしお》、越後境《えちござかい》の山々、近くは、小野子《おのこ》、子持《こもち》、赤城《あかぎ》の峰々、入り日を浴びて花やかに夕ばえすれば、つい下の榎《えのき》離れて唖々《ああ》と飛び行く烏《からす》の声までも金色《こんじき》に聞こゆる時、雲|二片《ふたつ》蓬々然《ふらふら》と赤城の背《うしろ》より浮かび出《い》でたり。三階の婦人は、そぞろにその行方《ゆくえ》をうちまもりぬ。
 両手|優《ゆた》かにかき抱《いだ》きつべきふっくりとかあいげなる雲は、おもむろに赤城の巓《いただき》を離れて、さえぎる物もなき大空を相並んで金の蝶のごとくひらめきつつ、優々として足尾の方《かた》へ流れしが、やがて日落ちて黄昏《たそがれ》寒き風の立つままに、二片《ふたつ》の雲今は薔薇色《ばらいろ》に褪《うつろ》いつつ、上下《うえした》に吹き離され、しだいに暮るる夕空を別れ別れにたどると見しもしばし、下なるはいよいよ細りていつしか影も残らず消ゆれば、残れる一片《ひとつ》はさらに灰色に褪《うつろ》いて朦乎《ぼいやり》と空にさまよいしが、
 果ては山も空もただ一色《ひといろ》に暮れて、三階に立つ婦人の顔のみぞ夕やみに白かりける。

     一の二

 「お嬢――おやどういたしましょう、また口がすべって、おほほほほ。あの、奥様、ただいま帰りましてございます。おや、まっくら。奥様エ、どこにおいで遊ばすのでございます?」
 「ほほほほ、ここにいるよ」
 「おや、ま、そちらに。早くおはいり遊ばせ。お風邪《かぜ》を召しますよ。旦那《だんな》様はまだお帰り遊ばしませんでございますか?」
 「どう遊ばしたんだろうね?」と障子をあけて内《うち》に入りながら「何《なん》なら帳場《した》へそう言って、お迎人《むかい》をね」
 「さようでございますよ」言いつつ手さぐりにマッチをすりてランプを点《つ》くるは、五十あまりの老女。
 おりから階段《はしご》の音して、宿の女中《おんな》は上り来つ。
 「おや、恐れ入ります。旦那様は大層ごゆっくりでいらっしゃいます。……はい、あのいましがた若い者をお迎えに差し上げましてございます。もうお帰りでございましょう。――お手紙が――」
 「おや、お父《とう》さまのお手紙――早くお帰りなさればいいに!」と丸髷《まるまげ》の婦人はさもなつかしげに表書《うわがき》を打ちかえし見る。
 「あの、殿様の御状で――。早く伺いたいものでございますね。おほほほほ、きっとまたおもしろいことをおっしゃってでございましょう」
 女中《おんな》は戸を立て、火鉢《ひばち》の炭をついで去れば、老女は風呂敷包《ふろしきづつ》みを戸棚《とだな》にしまい、立ってこなたに来たり、
 「本当に冷えますこと! 東京《あちら》とはよほど違いますでございますねエ」
 「五月に桜が咲いているくらいだからねエ。ばあや、もっとこちらへお寄りな」
 「ありがとうございます」言いつつ老女はつくづく顔打ちながめ「うそのようでございますねエ。こんなにお丸髷《まげ》にお結い遊ばして、ちゃんとすわっておいで遊ばすのを見ますと、ばあやがお育て申し上げたお方様とは思えませんでございますよ。先奥様《せんおくさま》がお亡《な》くなり遊ばした時、ばあやに負《おぶ》されて、母《かあ》様母様ッてお泣き遊ばしたのは、昨日《きのう》のようでございますがねエ」はらはらと落涙し「お輿入《こしいれ》の時も、ばあやはねエあなた、あの立派なごようすを先奥様がごらん遊ばしたら、どんなにおうれしかったろうと思いましてねエ」と襦袢《じゅばん》の袖《そで》引き出して目をぬぐう。
 こなたも引き入れられるるようにうつぶきつ、火鉢にかざせし左手《ゆんで》の指環《ゆびわ》のみ燦然《さんぜん》と照り渡る。
 ややありて姥《うば》は面《おもて》を上げつ。「御免遊ばせ、またこんな事を。おほほほ年が寄ると愚痴っぽくなりましてねエ。おほほほほ、お嬢――奥様もこれまではいろいろ御苦労も遊ばしましたねエ。本当によく御辛抱遊ばしましたよ。もうもうこれからはおめでたい事ばかりでございますよ、旦那様はあの通りおやさしいお方様――」
 「お帰り遊ばしましてございます」
 と女中《おんな》の声|階段《はしご》の口に響きぬ。

     一の三

 「やあ、くたびれた、くたびれた」
 足袋《たび》草鞋《わらじ》脱《ぬ》ぎすてて、出迎う二人《ふたり》にちょっと会釈しながら、廊下に上りて来し二十三四の洋服の男、提燈《ちょうちん》持ちし若い者を見返りて、
 「いや、御苦労、御苦労。その花は、面倒だが、湯につけて置いてもらおうか」
 「まあ、きれい!」
 「本当にま、きれいな躑躅《つつじ》でございますこと! 旦那様、どちらでお採り遊ばしました?」
 「きれいだろう。そら、黄色いやつもある。葉が石楠《しゃくなげ》に似とるだろう。明朝《あす》浪《なみ》さんに活《い》けてもらおうと思って、折って来たんだ。……どれ、すぐ湯に入って来ようか」
       *
 「本当に旦那様はお活発でいらっしゃいますこと! どうしても軍人のお方様はお違い遊ばしますねエ、奥様」
 奥様は丁寧に畳《たた》みし外套《がいとう》をそっと接吻《せっぷん》して衣桁《いこう》にかけつつ、ただほほえみて無言なり。
 階段《はしご》も轟《とどろ》と上る足音障子の外に絶えて、「ああいい心地《きもち》!」と入り来る先刻の壮夫《わかもの》。
 「おや、旦那様もうお上がり遊ばして?」
 「男だもの。あはははは」と快く笑いながら、妻がきまりわるげに被《はお》る大縞《おおじま》の褞袍《どてら》引きかけて、「失敬」と座ぶとんの上にあぐらをかき、両手に頬《ほお》をなでぬ。栗虫《くりむし》のように肥えし五分刈り頭の、日にやけし顔はさながら熟せる桃のごとく、眉《まゆ》濃く目いきいきと、鼻下にうっすり毛虫ほどの髭《ひげ》は見えながら、まだどこやらに幼な顔の残りて、ほほえまるべき男なり。
 「あなた、お手紙が」
 「あ、乃舅《おとっさん》だな」
 壮夫《わかもの》はちょいといずまいを直して、封を切り、なかを出《いだ》せば落つる別封。
 「これは浪さんのだ――ふむ、お変わりもないと見える……はははは滑稽《こっけい》をおっしゃるな……お話を聞くようだ」笑《えみ》を含んで読み終えし手紙を巻いてそばに置く。
 「おまえにもよろしく。場所が変わるから、持病の起こらぬように用心おしっておっしゃってよ」と「浪さん」は饌《ぜん》を運べる老女を顧みつ。
 「まあ、さようでございますか、ありがとう存じます」
 「さあ、飯だ、飯だ、今日《きょう》は握り飯二つで終日《いちんち》歩きずめだったから、腹が減ったこったらおびただしい。……ははは。こらあ何ちゅう
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