魚《さかな》だな、鮎《あゆ》でもなしと……」
 「山女《やまめ》とか申しましたっけ――ねエばあや」
 「そう? うまい、なかなかうまい、それお代わりだ」
 「ほほほ、旦那様のお早うございますこと」
 「そのはずさ。今日は榛名《はるな》から相馬《そうま》が嶽《たけ》に上って、それから二《ふた》ツ嶽《だけ》に上って、屏風岩《びょうぶいわ》の下まで来ると迎えの者に会ったんだ」
 「そんなにお歩き遊ばしたの?」
 「しかし相馬が嶽のながめはよかったよ。浪さんに見せたいくらいだ。一方は茫々《ぼうぼう》たる平原さ、利根《とね》がはるかに流れてね。一方はいわゆる山また山さ、その上から富士がちょっぽりのぞいてるなんぞはすこぶる妙だ。歌でも詠《よ》めたら、ひとつ人麿《ひとまろ》と腕っ比べをしてやるところだった。あはははは。そらもひとつお代わりだ」
 「そんなに景色《けしき》がようございますの。行って見とうございましたこと!」
 「ふふふふ。浪さんが上れたら、金鵄《きんし》勲章をあげるよ。そらあ急嶮《ひど》い山だ、鉄鎖《かなぐさり》が十本もさがってるのを、つたって上るのだからね。僕なんざ江田島《えたじま》で鍛い上げたからだで、今でもすわというとマストでも綱《リギング》でもぶら下がる男だから、何でもないがね、浪さんなんざ東京の土踏んだ事もあるまい」
 「まあ、あんな事を」にっこり顔をあからめ「これでも学校では体操もいたしましたし――」
 「ふふふふ。華族女学校の体操じゃ仕方がない。そうそう、いつだっけ、参観に行ったら、琴だか何だかコロンコロン鳴ってて、一方で『地球の上に国という国《くうに》は』何とか歌うと、女生《みんな》が扇を持って起《た》ったりしゃがんだりぐるり回ったりしとるから、踊りの温習《さらい》かと思ったら、あれが体操さ! あはははは」
 「まあ、お口がお悪い!」
 「そうそう。あの時山木の女《むすめ》と並んで、垂髪《おさげ》に結《い》って、ありあ何とか言ったっけ、葡萄色《ぶどういろ》の袴《はかま》はいて澄ましておどってたのは、たしか浪さんだっけ」
 「ほほほほ、あんな言《こと》を! あの山木さんをご存じでいらっしゃいますの?」
 「山木はね、うちの亡父《おや》が世話したんで、今に出入りしとるのさ。はははは、浪さんが敗北したもんだから黙ってしまったね」
 「あんな言《こと》!」
 「おほほほほ。そんなに御夫婦げんかを遊ばしちゃいけません。さ、さ、お仲直りのお茶でございますよ。ほほほほ」

     二

 前回かりに壮夫《わかもの》といえるは、海軍少尉|男爵《だんしゃく》川島武男《かわしまたけお》と呼ばれ、このたび良媒ありて陸軍中将子爵|片岡毅《かたおかき》とて名は海内《かいだい》に震える将軍の長女|浪子《なみこ》とめでたく合※[#「※」は「丞」の「一」のかわりに「巳」、第4水準2−3−54、13−11]《ごうきん》の式を挙《あ》げしは、つい先月の事にて、ここしばしの暇を得たれば、新婦とその実家よりつけられし老女の幾《いく》を連れて四五日|前《ぜん》伊香保《いかほ》に来たりしなり。
 浪子は八歳《やっつ》の年|実母《はは》に別れぬ。八歳《やっつ》の昔なれば、母の姿貌《すがたかたち》ははっきりと覚えねど、始終|笑《えみ》を含みていられしことと、臨終のその前にわれを臥床《ふしど》に呼びて、やせ細りし手にわが小さき掌《たなぞこ》を握りしめ「浪や、母《かあ》さんは遠《とおー》いとこに行くからね、おとなしくして、おとうさまを大事にして、駒《こう》ちゃんをかあいがってやらなければなりませんよ。もう五六年……」と言いさしてはらはらと涙を流し「母さんがいなくなっても母さんをおぼえているかい」と今は肩過ぎしわが黒髪のそのころはまだふっさりと額ぎわまで剪《き》り下げしをかいなでかいなでしたまいし事も記憶の底深く彫《え》りて思い出ぬ日はあらざりき。
 一年ほど過ぎて、今の母は来つ。それより後は何もかも変わり果てたることになりぬ。先の母はれっきとしたる士《さむらい》の家より来しなれば、よろず折り目正しき風《ふう》なりしが、それにてもあのように仲よき御夫婦は珍しと婢《おんな》の言えるをきけることもありし。今の母はやはりれっきとした士《さむらい》の家から来たりしなれど、早くより英国に留学して、男まさりの上に西洋風の染《し》みしなれば、何事も先とは打って変わりて、すべて先の母の名残《なごり》と覚ゆるをばさながら打ち消すように片端より改めぬ。父に対しても事ごとに遠慮もなく語らい論ずるを、父は笑いて聞き流し「よしよし、おいが負けじゃ、負けじゃ」と言わるるが常なれど、ある時ごく気に入りの副官、難波《なんば》といえるを相手の晩酌に、母も来たりて座に居しが、父はじろりと母を見てからからと笑いながら「なあ難波君、学問の出来《でく》る細君《おくさん》は持つもんじゃごわはん、いやさんざんな目にあわされますぞ、あはははは」と言われしとか。さすがの難波も母の手前、何と挨拶《あいさつ》もし兼ねて手持ちぶさたに杯《さかずき》を上げ下げして居しが、その後《のち》おのが細君にくれぐれも女児《むすめ》どもには書物を読み過ごさせな、高等小学卒業で沢山と言い含められしとか。
 浪子は幼きよりいたって人なつこく、しかも怜悧《りこう》に、香炉峰《こうろほう》の雪に簾《すだれ》を巻くほどならずとも、三つのころより姥《うば》に抱かれて見送る玄関にわれから帽をとって阿爺《ちち》の頭《かしら》に載すほどの気はききたり。伸びん伸びんとする幼心《おさなごころ》は、たとえば春の若菜のごとし。よしやひとたび雪に降られしとて、ふみにじりだにせられずば、おのずから雪|融《と》けて青々とのぶるなり。慈母《はは》に別れし浪子の哀《かな》しみは子供には似ず深かりしも、後《あと》の日だに照りたらば苦もなく育つはずなりき。束髪に結いて、そばへ寄れば香水の香の立ち迷う、目少し釣りて口大きなる今の母を初めて見し時は、さすがに少したじろぎつるも、人なつこき浪子はこの母君にだに慕い寄るべかりしに、継母はわれからさしはさむ一念にかあゆき児《こ》をば押し隔てつ。世なれぬわがまま者の、学問の誇り、邪推、嫉妬《しっと》さえ手伝いて、まだ八つ九つの可愛児《かあいこ》を心ある大人《おとな》なんどのように相手にするより、こなたは取りつく島もなく、寒ささびしさは心にしみぬ。ああ愛されぬは不幸なり、愛いすることのできぬはなおさらに不幸なり。浪子は母あれども愛するを得ず、妹《いもと》あれども愛するを得ず、ただ父と姥《うば》の幾《いく》と実母の姉なる伯母《おば》はあれど、何を言いても伯母はよその人、幾は召使いの身、それすら母の目常に注ぎてあれば、少しよくしても、してもらいても、互いにひいきの引き倒し、かえってためにならず。ただ父こそは、父こそは渾身《こんしん》愛に満ちたれど、その父中将すらもさすがに母の前をばかねらるる、それも思えば慈愛の一つなり。されば母の前では余儀なくしかりて、陰へ回れば言葉少なく情深くいたわる父の人知らぬ苦心、怜悧《さと》き浪子は十分に酌《く》んで、ああうれしいかたじけない、どうぞ身を粉《こ》にしても父上のおためにと心に思いはあふるれど、気がつくほどにすれば、母は自分の領分に踏み込まれたるように気をわるくするがつらく、光を※[#「※」は「媼」の「女」のかわりに「韋」、第3水準1−93−83、15−15]《つつ》みて言《ことば》寡《すくな》に気もつかぬ体《てい》に控え目にしていれば、かえって意地わるのやれ鈍物のと思われ言わるるも情けなし。ある時はいささかの間違いより、流るるごとき長州弁に英国仕込みの論理法もて滔々《とうとう》と言いまくられ、おのれのみかは亡《な》き母の上までもおぼろげならずあてこすられて、さすがにくやしくかんだ唇《くちびる》開かんとしては縁側にちらりと父の影見ゆるに口をつぐみ、あるいはまたあまり無理なる邪推されては「母《おっか》さまもあんまりな」と窓かけの陰に泣いたることもありき。父ありというや。父はあり。愛する父はあり。さりながら家《うち》が世界の女の兒《こ》には、五人の父より一人《ひとり》の母なり。その母が、その母がこの通りでは、十年の間には癖もつくべく、艶《つや》も失《う》すべし。「本当に彼女《あのこ》はちっともさっぱりした所がない、いやに執念《しゅうねい》な人だよ」と夫人は常にののしりぬ。ああ土鉢《どばち》に植えても、高麗交趾《こうらいこうち》の鉢に植えても、花は花なり、いずれか日の光を待たざるべき。浪子は実に日陰の花なりけり。
 さればこのたび川島家と縁談整いて、輿入《こしいれ》済みし時は、浪子も息をつき、父中将も、継母も、伯母も、幾《いく》も、皆それぞれに息をつきぬ。
 「奥様(浪子の継母)は御自分は華手《はで》がお好きなくせに、お嬢様にはいやアな、じみなものばかり、買っておあげなさる」とつねにつぶやきし姥《うば》の幾が、嫁入りじたくの薄きを気にして、先奥様《せんおくさま》がおいでになったらとかき口説《くど》いて泣きたりしも、浪子はいそいそとしてわが家《や》の門《かど》を出《い》でぬ。今まで知らぬ自由と楽しさのこのさきに待つとし思えば、父に別るる哀《かな》しさもいささか慰めらるる心地《ここち》して、いそいそとして行きたるなり。

     三の一

 伊香保より水沢《みさわ》の観音《かんのん》まで一里あまりの間は、一条《ひとすじ》の道、蛇《へび》のごとく禿山《はげやま》の中腹に沿うてうねり、ただ二か所ばかりの山の裂け目の谷をなせるに陥りてまた這《は》い上がれるほかは、目をねむりても行かるべき道なり。下は赤城《あかぎ》より上毛《じょうもう》の平原を見晴らしつ。ここらあたりは一面の草原なれば、春のころは野焼きのあとの黒める土より、さまざまの草|萱《かや》萩《はぎ》桔梗《ききょう》女郎花《おみなえし》の若芽など、生《は》え出《い》でて毛氈《もうせん》を敷けるがごとく、美しき草花その間に咲き乱れ、綿帽子着た銭巻《ぜんまい》、ひょろりとした蕨《わらび》、ここもそこもたちて、ひとたびここにおり立たば春の日の永《なが》きも忘るべき所なり。
 武男《たけお》夫婦は、今日《きょう》の晴れを蕨狩《わらびが》りすとて、姥《うば》の幾《いく》と宿の女中を一人《ひとり》つれて、午食後《ひるご》よりここに来つ。はやひとしきり採りあるきて、少しくたびれが来しと見え、女中に持たせし毛布《けっと》を草のやわらかなるところに敷かせて、武男は靴《くつ》ばきのままごろりと横になり、浪子《なみこ》は麻裏草履《あさうら》を脱ぎ桃紅色《ときいろ》のハンケチにて二つ三つ膝《ひざ》のあたりをはらいながらふわりとすわりて、
 「おおやわらか! もったいないようでございますね」
 「ほほほお嬢――あらまた、御免遊ばせ、お奥様のいいお顔色《いろ》におなり遊ばしましたこと! そしてあんなにお唱歌なんぞお歌い遊ばしましたのは、本当にお久しぶりでございますねエ」と幾はうれしげに浪子の横顔をのぞく。
 「あんまり歌ってなんだか渇《かわ》いて来たよ」
 「お茶を持ってまいりませんで」と女中は風呂敷《ふろしき》解きて夏蜜柑《なつみかん》、袋入りの乾菓子《ひがし》、折り詰めの巻鮓《まきずし》など取り出す。
 「何、これがあれば茶はいらんさ」と武男はポッケットよりナイフ取り出して蜜柑をむきながら「どうだい浪さん、僕の手ぎわには驚いたろう」
 「あんな言《こと》をおっしゃるわ」
 「旦那《だんな》様のおとり遊ばしたのには、杪※[※]は「木へん+羅」、第4水準2−15−82、17−18」《へご》がどっさりまじっておりましてございますよ」と、女中が口を出す。
 「ばかを言うな。負け惜しみをするね。ははは。今日は実に愉快だ。いい天気じゃないか」
 「きれいな空ですこと、碧々《あおあお》して、本当に小袖《こそで》にしたいようでございますね」
 「水兵の服にはなおよかろう」
 「おお
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