侯爵の婿、某学士兼高等官は某伯の婿、某富豪は某伯の子息の養父にて、某侯の子息の妻《さい》も某富豪の女《むすめ》と暗に指を折りつつ、早くもそこここと配れる眼《まなこ》は片岡《かたおか》陸軍中将の家に注ぎぬ。片岡中将としいえば、当時予備にこそおれ、驍名《ぎょうめい》天下に隠れなく、畏《かしこ》きあたりの御覚《おんおぼ》えもいとめでたく、度量|濶大《かつだい》にして、誠に国家の干城と言いつべき将軍なり。千々岩は早くこの将軍の隠然として天下に重き勢力を見ぬきたれば、いささかの便《たより》を求めて次第に近寄り、如才なく奥にも取り入りつ。目は直ちに第一の令嬢浪子をにらみぬ。一には父中将の愛おのずからもっとも深く浪子の上に注ぐをいち早く看《み》て取りしゆえ、二には今の奥様はおのずから浪子を疎《うと》みてどこにもあれ縁あらば早く片づけたき様子を見たるため、三にはまた浪子のつつしみ深く気高《けだか》きを好ましと思う念もまじりて、すなわちその人を目がけしなり。かくて様子を見るに中将はいわゆる喜怒容易に色にあらわれぬ太腹の人なれば、何と思わるるかはちと測り難けれど、奥様の気には確かに入りたり。二番目の令嬢の名はお駒《こま》とて少し跳《は》ねたる三五の少女《おとめ》はことにわれと仲よしなり。その下には今の奥様の腹にて、二人《ふたり》の子供あれど、こは問題のほかとしてここに老女の幾《いく》とて先の奥様の時より勤め、今の奥様の輿入《こしいれ》後奥台所の大更迭を行われし時も中将の声がかりにて一人《ひとり》居残りし女、これが終始浪子のそばにつきてわれに好意の乏しきが邪魔なれど、なあに、本人の浪子さえ攻め落とさばと、千々岩はやがて一年ばかり機会をうかがいしが、今は待ちあぐみてある日宴会帰りの酔《え》いまぎれ、大胆にも一通の艶書《えんしょ》二重《ふたえ》封《ふう》にして表書きを女|文字《もじ》に、ことさらに郵便をかりて浪子に送りつ。
その日命ありてにわかに遠方に出張し、三月あまりにして帰れば、わが留守に浪子は貴族院議員|加藤《かとう》某《なにがし》の媒酌《ばいしゃく》にて、人もあるべきにわが従弟《いとこ》川島武男と結婚の式すでに済みてあらんとは! 思わぬ不覚をとりし千々岩は、腹立ちまぎれに、色よき返事このようにと心に祝いて土産《みやげ》に京都より買《こ》うて来し友染縮緬《ゆうぜんちりめん》ずたずたに引き裂きて屑籠《くずかご》に投げ込みぬ。
さりながら千々岩はいかなる場合にも全くわれを忘れおわる男にあらざれば、たちまちにして敗余の兵を収めつ。ただ心外なるはこの上かの艶書《ふみ》の一条もし浪子より中将に武男に漏れなば大事の便宜《たより》を失う恐れあり。持ち込みよき浪子の事なれば、まさかと思えどまたおぼつかなく、高崎に用ありて行きしを幸い、それとなく伊香保に滞留する武男夫妻を訪《と》うて、やがて探りを入れたるなり。
いまいましきは武男――
*
「武男、武男」と耳近にたれやら呼びし心地《ここち》して、愕《がく》と目を開きし千々岩、窓よりのぞけば、列車はまさに上尾《あげお》の停車場《ステーション》にあり。駅夫が、「上尾上尾」と呼びて過ぎたるなり。
「ばかなッ!」
ひとり自らののしりて、千々岩は起《た》ちて二三度車室を往《ゆ》き戻りつ。心にまとう或《あ》るものを振り落とさんとするように身震いして、座にかえりぬ。冷笑の影、目にも唇《くちびる》にも浮かびたり。
列車はまたも上尾を出《い》でて、疾風のごとく馳《は》せつつ、幾駅か過ぎて、王子《おうじ》に着きける時、プラットフォムの砂利踏みにじりて、五六人ドヤドヤと中等室に入り込みぬ。なかに五十あまりの男の、一楽《いちらく》の上下《にまい》ぞろい白縮緬《しろちりめん》の兵児帯《へこおび》に岩丈な金鎖をきらめかせ、右手《めて》の指に分厚《ぶあつ》な金の指環《ゆびわ》をさし、あから顔の目じり著しくたれて、左の目下にしたたかなる赤黒子《あかぼくろ》あるが、腰かくる拍子にフット目を見合わせつ。
「やあ、千々岩さん」
「やあ、これは……」
「どちらへおいででしたか」言いつつ赤黒子は立って千々岩がそばに腰かけつ。
「はあ、高崎まで」
「高崎のお帰途《かえり》ですか」ちょっと千々岩の顔をながめ、少し声を低めて「時にお急ぎですか。でなけりゃ夜食でもごいっしょにやりましょう」
千々岩はうなずきたり。
四の二
橋場の渡しのほとりなるとある水荘の門に山木兵造《やまきひょうぞう》別邸とあるを見ずば、某《なにがし》の待合《まちあい》かと思わるべき家作《やづく》りの、しかも音締《ねじ》めの響《おと》しめやかに婀娜《あだ》めきたる島田の障子《しょうじ》に映るか、さもなくば紅《くれない》の毛氈《もうせん》敷かれて花牌《はなふだ》など落ち散るにふさわしかるべき二階の一室《ひとま》に、わざと電燈の野暮《やぼ》を避けて例の和洋行燈《あんどうらんぷ》を据え、取り散らしたる杯盤の間に、あぐらをかけるは千々岩と今|一人《ひとり》の赤黒子は問うまでもなき当家の主人山木兵造なるべし。
遠ざけにしや、そばに侍《はんべ》る女もあらず。赤黒子の前には小形の手帳を広げたり、鉛筆を添えて。番地官名など細かに肩書きして姓名|数多《あまた》記《しる》せる上に、鉛筆にてさまざまの符号《しるし》つけたり。丸。四角。三角。イの字。ハの字。五六七などの数字。あるいはローマ数字。点かけたるもあり。ひとたび消してイキルとしたるもあり。
「それじゃ千々岩さん。その方はそれと決めて置いて、いよいよ定《き》まったらすぐ知らしてくれたまえ。――大丈夫間違はあるまいね」
「大丈夫さ、もう大臣の手もとまで出ているのだから。しかし何しろ競争者《あいて》がしょっちゅう運動しとるのだから例のも思い切って撒《ま》かんといけない。これだがね、こいつなかなか食えないやつだ。しッかり轡《くつわ》をかませんといけないぜ」と千々岩は手帳の上の一《いつ》の名をさしぬ。
「こらあどうだね?」
「そいつは話せないやつだ。僕はよくしらないが、ひどく頑固《がんこ》なやつだそうだ。まあ正面から平身低頭でゆくのだな。悪くするとしくじるよ」
「いや陸軍にも、わかった人もあるが、実に話のできン男もいるね。去年だった、師団に服を納めるンで、例の筆法でまあ大概は無事に通ったのはよかッたが。あら何とか言ッたッけ、赤髯《あかひげ》の大佐だったがな、そいつが何のかの難癖つけて困るから、番頭をやって例の菓子箱を出すと、ばかめ、賄賂《わいろ》なんぞ取るものか、軍人の体面に関するなんて威張って、とどのつまりあ菓子箱を蹴《け》飛ばしたと思いなさい。例の上層《うえ》が干菓子で、下が銀貨《しろいの》だから、たまらないさ。紅葉《もみじ》が散る雪が降る、座敷じゅう――の雨だろう。するとそいつめいよいよ腹あ立てやがッて、汚らわしいの、やれ告発するのなんのぬかしやがるさ。やっと結局《まとめ》をつけはつけたが、大骨折らしアがッたね。こんな先生がいるからばかばかしく事が面倒になる。いや面倒というと武男さんなぞがやっぱりこの流で、実に話せないに困る。こないだも――」
「しかし武男なんざ親父《おやじ》が何万という身代をこしらえて置いたのだから、頑固だッて正直だッて好きなまねしていけるのだがね。吾輩《ぼく》のごときは腕一本――」
「いやすっかり忘れていた」と赤黒子はちょいと千々岩の顔を見て、懐中より十円|紙幣《さつ》五枚取り出《いだ》し「いずれ何はあとからとして、まあ車代に」
「遠慮なく頂戴《ちょうだい》します」手早くかき集めて内《うち》ポケットにしまいながら「しかし山木さん」
「?」
「なにさ、播《ま》かぬ種は生《は》えんからな!」
山木は苦笑《にがわら》いしつ。千々岩が肩ぽんとたたいて「食えン男だ、惜しい事だな、せめて経理局長ぐらいに!」
「はははは。山木さん、清正《きよまさ》の短刀は子供の三尺三寸よりか切れるぜ」
「うまく言ったな――しかし君、蠣殻町《かきがらちょう》だけは用心したまえ、素人《しろうと》じゃどうしてもしくじるぜ」
「なあに、端金《はしたがね》だからね――」
「じゃいずれ近日、様子がわかり次第――なに、車は出てから乗った方が大丈夫です」
「それじゃ――家内も御挨拶《ごあいさつ》に出るのだが、娘が手離されんでね」
「お豊《とよ》さんが? 病気ですか」
「実はその、何です。この一月ばかり病気をやってな、それで家内が連れて此家《ここ》へ来ているですて。いや千々岩さん、妻《かか》だの子だの滅多に持つもんじゃないね。金もうけは独身に限るよ。はッははは」
主人《あるじ》と女中《おんな》に玄関まで見送られて、千々岩は山木の別邸を出《い》で行きたり。
四の三
千々岩を送り終わりて、山木が奥へ帰り入る時、かなたの襖《ふすま》すうと開きて、色白きただし髪薄くしてしかも前歯二本不行儀に反《そ》りたる四十あまりの女入り来たりて山木のそばに座を占めたり。
「千々岩さんはもうお帰り?」
「今追っぱらったとこだ。どうだい、豊《とよ》は?」
反歯《そっぱ》の女はいとど顔を長くして「ほんまに良人《あんた》。彼女《あれ》にも困り切りますがな。――兼《かね》、御身《おまえ》はあち往《い》っておいで。今日《きょう》もなあんた、ちいと何かが気に食わんたらいうて、お茶碗《ちゃわん》を投げたり、着物を裂いたりして、しようがありまへんやった。ほんまに十八という年をして――」
「いよいよもって巣鴨《すがも》だね。困ったやつだ」
「あんた、そないな戯談《じょうだん》どころじゃございませんがな。――でもかあいそうや、ほんまにかあいそうや、今日もな、あんた、竹《たけ》にそういいましたてね。ほんまに憎らしい武男はんや、ひどいひどいひどいひどい人や、去年のお正月には靴下《くつした》を編んであげたし、それからハンケチの縁を縫ってあげたし、それからまだ毛糸の手袋だの、腕ぬきだの、それどころか今年の御年始には赤い毛糸でシャツまで編んであげたに、皆《みいな》自腹ア切ッて編んであげたのに、何《なアん》の沙汰《さた》なしであの不器量な意地《いじ》わるの威張った浪子はんをお嫁にもらったり、ほんまにひどい人だわ、ひどいわひどいわひどいわひどいわ、あたしも山木の女《むすめ》やさかい、浪子はんなんかに負けるものか、ほんまにひどいひどいひどいひどいッてな、あんた、こないに言って泣いてな。そないに思い込んでいますに、あああ、どうにかしてやりたいがな、あんた」
「ばかを言いなさい。勇将の下《もと》に弱卒なし。御身《おまえ》はさすがに豊が母《おっか》さんだよ。そらア川島だッて新華族にしちゃよっぽど財産もあるし、武男さんも万更《まんざら》ばかでもないから、おれもよほどお豊を入れ込もうと骨折って見たじゃないか。しかしだめで、もうちゃんと婚礼が済んで見れば、何もかも御破算さ。お浪さんが死んでしまうか、離縁にでもならなきゃア仕方がないじゃないか。それよりもばかな事はいい加減に思い切ッてさ、ほかに嫁《かたづ》く分別が肝心じゃないか、ばかめ」
「何が阿呆《あほう》かいな? はい、あんた見たいに利口やおまへんさかいな。好年配《えいとし》をして、彼女《あれ》や此女《これ》や足袋《たび》とりかえるような――」
「そう雄弁|滔々《とうとう》まくしかけられちゃア困るて。御身《おまえ》は本当に馬《ば》――だ。すぐむきになりよる。なにさ、おれだッて、お豊は子だもの、かあいがらずにどうするものか、だからさ、そんなくだらぬ繰り言ばっかり言ってるよりも、別にな、立派なとこに、な、生涯楽をさせようと思ってるのだ。さ、おすみ、来なさい、二人《ふたり》でちっと説諭でもして見ようじゃないか」
と夫婦打ち連れ、廊下伝いに娘お豊の棲《す》める離室《はなれ》におもむきたり。
山木兵造というはいずこの人なりけるにや、出所定かならねど、今は世に知られたる紳商と
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