もンじゃ。いや、それよかおとうさんがの、二十《はたち》の年じゃった、大西郷《おおさいごう》と有村《ありむら》――海江田《かえだ》と月照師《げっしょうさん》を大阪まで連れ出したあとで、大事な要がでけて、おとうさんが行くことになって、さああと追っかけたが、あんまり急いで一|文《もん》なしじゃ。とうとう頬《ほお》かぶりをして跣足《はだし》で――夜じゃったが――伏見《ふしみ》から大阪まで川堤《かわどて》を走ったこともあったンじゃ。はははは。暑いじゃないか、浪、くたびれるといかん、もう少し乗ったらどうじゃ」
 おくれし車を幾が手招けば、からからと挽《ひ》き来つ。三人《みたり》は乗りぬ。
 「じゃ、そろそろやってくれ」
 車は徐々に麦圃《ばくほ》を穿《うが》ち、茶圃を貫きて、山科《やましな》の方《かた》に向かいつ。
 前なる父が項《うなじ》の白髪《しらが》を見つめて、浪子は思いに沈みぬ。良人《おっと》に別れ、不治の疾《やまい》をいだいて、父に伴なわるるこの遊びを、うれしといわんか、哀《かな》しと思わんか。望みも楽しみも世に尽き果てて遠からぬ死を待つわれを不幸といわば、そのわれを思い想《おも》う父の心をくむに難からず。浪子は限りなき父の愛を想うにつけても、今の身はただ慰めらるるほかに父を慰むべき道なきを哀《かな》しみつ。世を忘れ人を離れて父子《おやこ》ただ二人|名残《なごり》の遊びをなす今日このごろは、せめて小供の昔にかえりて、物見遊山《ものみゆさん》もわれから進み、やがて消ゆべき空蝉《うつせみ》の身には要なき唐《から》織り物も、末は妹《いもと》に紀念《かたみ》の品と、ことに華美《はで》なるを選みしなり。
 父を哀《かな》しと思えば、恋しきは良人武男。旅順に父の危難《あやうき》を助けたまいしとばかり、後の消息はたれ伝うる者もなく、思いは飛び夢は通えど、今はいずくにか居たもうらん。あいたし、一度あいたし、生命《いき》あるうちに一度、ただ一度あいたしと思うにつけて、さきに聞きつる鄙歌《ひなうた》のあいにく耳に響き、かの百姓夫婦のむつまじく語れる面影は眼前《めさき》に浮かび、楽しき粗布《あらぬ》に引きかえて憂いを包む風通《ふうつう》の袂《たもと》恨めしく――
 せぐり来る涙をハンケチにおさえて、泣かじと唇《くちびる》をかめば、あいにくせきのしきりに濡れぬ。
 中将は気づかわしげに、ふりかえりつ。
 「もうようございます」
 浪子はわずかに笑《え》みを作りぬ。
       *
 山科《やましな》に着きて、東行の列車に乗りぬ。上等室は他に人もなく、浪子は開ける窓のそばに、父はかなたに坐《ざ》して新聞を広げつ。
 おりから煙を噴《は》き地をとどろかして、神戸《こうべ》行きの列車は東より来たり、まさに出《い》でんとするこなたの列車と相ならびたり。客車の戸を開閉《あけたて》する音、プラットフォームの砂利《じゃり》踏みにじりて駅夫の「山科、山科」と叫び過ぐる声かなたに聞こゆるとともに、汽笛鳴りてこなたの列車はおもむろに動き初めぬ。開ける窓の下《もと》に坐して、浪子はそぞろに移り行くあなたの列車をながめつ。あたかもかの中等室の前に来し時、窓に頬杖《ほおづえ》つきたる洋装の男と顔見合わしたり。
 「まッあなた!」
 「おッ浪さん!」
 こは武男なりき。
 車は過ぎんとす。狂せるごとく、浪子は窓の外にのび上がりて、手に持てるすみれ色のハンケチを投げつけつ。
 「おあぶのうございますよ、お嬢様」
 幾は驚きてしかと浪子の袂を握りぬ。
 新聞手に持ちたるまま中将も立ち上がりて窓の外を望みたり。
 列車は五|間《けん》過《す》ぎ――十間過ぎぬ。落つばかりのび上がりて、ふりかえりたる浪子は、武男が狂えるごとくかのハンケチを振りて、何か呼べるを見つ。
 たちまちレールは山角《さんかく》をめぐりぬ。両窓のほか青葉の山あるのみ。後ろに聞こゆる帛《きぬ》を裂くごとき一声は、今しもかの列車が西に走れるならん。
 浪子は顔打ちおおいて、父の膝《ひざ》にうつむきたり。

    九の一

 七月七日の夕べ、片岡中将の邸宅《やしき》には、人多く集《つど》いて、皆|低声《こごえ》にもの言えり。令嬢浪子の疾《やまい》革《あらた》まれるなり。
 かねては一月の余もと期せられつる京洛《けいらく》の遊より、中将父子の去月下旬にわかに帰り来たれる時、玄関に出《い》で迎えし者は、医ならざるも浪子の病勢おおかたならず進めるを疑うあたわざりき。はたして医師は、一診して覚えず顔色を変えたり。月ならずして病勢にわかに加われるが上に、心臓に著しき異状を認めたるなりき。これより片岡家には、深夜も燈《ともしび》燃えて、医は間断なく出入りし、月末より避暑におもむくべかりし子爵夫人もさすがにしばしその行を見合わしつ。
 名医の術も施すに由なく、幾が夜ごと日ごとの祈念もかいなく、病は日《ひび》に募りぬ。数度の喀血《かっけつ》、その間々《あいあい》には心臓の痙攣《けいれん》起こり、はげしき苦痛のあとはおおむね※[#「※」は「りっしんべん+昏」、第4水準2−12−54、212−10]々《こんこん》としてうわ言を発し、今日は昨日より、翌日《あす》は今日より、衰弱いよいよ加わりつ。その咳嗽《がいそう》を聞いて連夜《よごと》ねむらぬ父中将のわが枕《まくら》べに来るごとに、浪子はほのかに笑《え》みて苦しき息を忍びつつ明らかにもの言えど、うとうととなりては絶えず武男の名をば呼びぬ。
       *
 今日明日と医師のことに戒めしその今日は夕べとなりて、部屋《へや》部屋は燈《ともしび》あまねく点《つ》きたれど、声高《こわだか》にもの言う者もなければ、しんしんとして人ありとは思われず。今皮下注射を終えたるあとをしばし静かにすとて、廊下伝いに離家《はなれ》より出《い》で来し二人の婦人は、小座敷の椅子《いす》に倚《よ》りつ。一人は加藤子爵夫人なり。今一人はかつて浪子を不動祠畔《ふどうしはん》に救いしかの老婦人なり。去年の秋の暮れに別れしより、しばらく相見ざりしを、浪子が父に請いて使いして招けるなり。
 「いろいろ御親切に――ありがとうございます。姪《あれ》も一度はお目にかかってお礼を申さなければならぬと、そう言い言いいたしておりましたのですが――お目にかかりまして本望でございましょう」

 加藤子爵夫人はわずかに口を開きぬ。
 答うべき辞《ことば》を知らざるように、老婦人はただ太息《といき》つきて頭《かしら》を下げつ。ややありて声を低くし
 「で――はどちらにおいでなさいますので?」
 「台湾にまいったそうでございます」
 「台湾!」
 老婦人は再び太息つきぬ。
 加藤子爵夫人はわき来る涙をかろうじておさえつ。
 「でございませんと、あの通り思っているのでございますから、世間体はどうともいたして、あわせもいたしましょうし、暇乞《いとまごい》もいたさせたいのですが――何をいっても昨日今日台湾に着いたばかり、それがほかと違って軍艦に乗っているのでございますから――」
 おりから片岡夫人入り来つ。そのあとより目を泣きはらしたる千鶴子は急ぎ足に入り来たりて、その母を呼びたり。

    九の二

 日は暮れぬ。去年の夏に新たに建てられし離家《はなれ》の八畳には、燭台《しょくだい》の光ほのかにさして、大いなる寝台《ねだい》一つ据えられたり。その雪白なるシーツの上に、目を閉じて、浪子は横たわりぬ。
 二年に近き病に、やせ果てし躯《み》はさらにやせて、肉という肉は落ち、骨という骨は露《あら》われ、蒼白《あおじろ》き面《おもて》のいとど透きとおりて、ただ黒髪のみ昔ながらにつやつやと照れるを、長く組みて枕上《まくら》にたらしたり。枕もとには白衣の看護婦が氷に和せし赤酒《せきしゅ》を時々筆に含まして浪子の唇《くちびる》を湿《うるお》しつ。こなたには今一人の看護婦とともに、目くぼみ頬落ちたる幾がうつむきて足をさすりぬ。室内しんしんとして、ただたちまち急にたちまちかすかになり行く浪子の呼吸の聞こゆるのみ。
 たちまち長き息つきて、浪子は目を開き、かすかなる声を漏らしつ。
 「伯母さまは――?」
 「来ましたよ」
 言いつつしずかに入り来たりし加藤子爵夫人は、看護婦がすすむる椅子をさらに臥床《とこ》近く引き寄せつ。
 「少しはねむれましたか。――何? そうかい。では――」
 看護婦と幾を顧みつつ
 「少しの間《ま》あっちへ」
 三人《みたり》を出しやりて、伯母はなお近く椅子を寄せ、浪子の額にかかるおくれ毛をなで上げて、しげしげとその顔をながめぬ。浪子も伯母の顔をながめぬ。
 ややありて浪子は太息《といき》とともに、わなわなとふるう手をさしのべて、枕の下より一通の封ぜし書《もの》を取り出《いだ》し
 「これを――届けて――わたしがなくなったあとで」
 ほろほろとこぼす涙をぬぐいやりつつ、加藤子爵夫人は、さらに眼鏡《めがね》の下よりはふり落つる涙をぬぐいて、その書をしかとふところにおさめ、
 「届けるよ、きっとわたしが武男さんに手渡すよ」
 「それから――この指環《ゆびわ》は」
 左手《ゆんで》を伯母の膝《ひざ》にのせつ。その第四指に燦然《さんぜん》と照るは一昨年《おととし》の春、新婚の時武男が贈りしなり。去年去られし時、かの家に属するものをばことごとく送りしも、ひとりこれのみ愛《お》しみて手離すに忍びざりき。
 「これは――持《も》って――行きますよ」
 新たにわき来る涙をおさえて、加藤夫人はただうなずきたり。浪子は目を閉じぬ。ややありてまた開きつ。
 「どうしていらッしゃる――でしょう?」
 「武男さんはもう台湾《あちら》に着いて、きっといろいろこっちを思いやっていなさるでしょう。近くにさえいなされば、どうともして、ね、――そうおとうさまもおっしゃっておいでだけれども――浪さん、あんたの心尽くしはきっとわたしが――手紙も確かに届けるから」
 ほのかなる笑《えみ》は浪子の唇《くちびる》に上りしが、たちまち色なき頬のあたり紅《くれない》をさし来たり、胸は波うち、燃ゆばかり熱き涙はらはらと苦しき息をつき、
 「ああつらい! つらい! もう――もう婦人《おんな》なんぞに――生まれはしませんよ。――あああ!」
 眉《まゆ》をあつめ胸をおさえて、浪子は身をもだえつ。急に医を呼びつつ赤酒を含ませんとする加藤夫人の手にすがりて半ば起き上がり、生命《いのち》を縮むるせきとともに、肺を絞って一|盞《さん》の紅血を吐きつ。※[#「※」は「りっしんべん+昏」、第4水準2−12−54、216−7]々《こんこん》として臥床《とこ》の上に倒れぬ。
 医とともに、皆入りぬ。

    九の三

 医師は騒がず看護婦を呼びて、応急の手段《てだて》を施しつ。さしずして寝床に近き玻璃窓《はりそう》を開かせたり。
 涼しき空気は一陣水のごとく流れ込みぬ。まっ黒き木立《こだち》の背《うしろ》ほのかに明るみたるは、月|出《い》でんとするなるべし。
 父中将を首《はじめ》として、子爵夫人、加藤子爵夫人、千鶴子、駒子、及び幾も次第にベッドをめぐりて居流れたり。風はそよ吹きてすでに死せるがごとく横たわる浪子の鬢髪《びんぱつ》をそよがし、医はしきりに患者の面《おもて》をうかがいつつ脈をとれば、こなたに立てる看護婦が手中の紙燭《ししょく》はたはたとゆらめいたり。
 十分過ぎ十五分過ぎぬ。寂《しず》かなる室内かすかに吐息聞こえて、浪子の唇わずかに動きつ。医は手ずから一匕《ひとさじ》の赤酒を口中に注ぎぬ。長き吐息は再び寂《しず》かなる室内に響きて、
 「帰りましょう、帰りましょう、ねエあなた――お母《かあ》さま、来ますよ来ますよ――おお、まだ――ここに」
 浪子はぱっちりと目を開きぬ。
 あたかも林端に上れる月は一道の幽光を射て、惘々《もうもう》としたる浪子の顔を照らせり。
 医師は中将にめくばせして、片隅《かたえ》に退きつ。中将は進みて浪子の手を執り、
 「浪、気がついたか。おとうさんじゃぞ。――みん
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