かくも川島家のためだから仕方がないといったようなもので。はあそうですか、近ごろはまた少しはいい方で、なるほど、逗子に保養に行っていなさるかね。しかしあの病気ばかりはいくらよく見えてもどうせ死病だて。ところで武男――いや若旦那はまだ怒《おこ》っていなさるかね」
椀《わん》の蓋《ふた》をとれば松茸《まつだけ》の香の立ち上りて鯛《たい》の脂《あぶら》の珠《たま》と浮かめるをうまげに吸いつつ、田崎は髯《ひげ》押しぬぐいて
「さあ、そこですがな。それはもうもとをいえば何もお家のためでしかたもないといったものの、なあ山木|君《さん》、旦那の留守に何も相談なしにやっておしまいなさるというは、御隠居も少し御気随が過ぎたというものでな。実はわたしも旦那のお帰りまでお待ちなさるようにと申し上げて見たのじゃが、あのお気質で、いったんこうと言い出しなすった事は否応《いやおう》なしにやり遂げるお方だから、とうとうあの通りになったンで。これは旦那がおもしろく思いなさらぬももっともじゃとわたしは思うくらい。それに困った人はあの千々岩《ちぢわ》さん――たしかもう清国《あっち》に渡《い》ったように聞いたですが」
山木はじろりとあなたの顔を見つつ「千々岩! はああの男はこのあいだ出征《でかけ》たが、なまじっか顔を知られた報いで、ここに滞在中《いるうち》もたびたび無心にやって来て困ったよ。顔《つら》の皮の厚い男でね。戦争《いくさ》で死ぬかもしれんから香奠《こうでん》と思って餞別《せんべつ》をくれろ、その代わり生命《いのち》があったらきっと金鵄《きんし》勲章をとって来るなんかいって、百両ばかり踏んだくって行ったて。ははははは、ところで武男|君《さん》は負傷《けが》がよくなったら、ひとまず帰京《かえり》なさるかね」
「さあ、御自身はよくなり次第すぐまた戦地に出かけるつもりでいなさるようですがね」
「相変わらず元気な事を言いなさる。が、田崎|君《さん》、一度は帰京《かえ》って御隠居と仲直りをなさらんといけないじゃあるまいか。どれほど気に入っていなすったか知らんが、浪子さんといえばもはや縁の切れたもので、その上|健康《たっしゃ》な方《かた》でもあることか、死病にとりつかれている人を、まさかあらためて呼び取りなさるという事もできまいし、まあ過ぎた事は仕方がないとして、早く親子仲直りをしなさらんじゃなるまい、とわたしは思うが。なあ、田崎|君《さん》」
田崎は打ち案じ顔に「旦那はあの通り正直《まっすぐ》なお方だから、よし御隠居の方がわるいにもしろ、自分の仕打ちもよくなかったとそう思っていなさる様子でね。それに今度わたしがお見舞に行ったンでまあ御隠居のお心も通ったというものだから、仲直りも何もありやしないが、しかし――」
「戦争中《いくささなか》の縁談もおかしいが、とにかく早く奥様を迎《よ》びなさるのだね。どうです、旦那は御隠居と仲直りはしても、やっぱり浪子さんは忘れなさるまいか。若い者は最初のうちはよく強情を張るが、しかし新しい人が来て見るとやはりかわゆくなるものでね」
「いやそのことは御隠居も考えておいでなさるようだが、しかし――」
「むずかしかろうというのかね」
「さあ、旦那があんな一途《いちず》な方《かた》だから、そこはどうとも」
「しかしお家のため、旦那のためだから、なあ田崎|君《さん》」
話はしばし途切れつ。二階には演説や終わりつらん、拍手の音盛んに聞こゆ。障子の夕日やや薄れて、ラッパの響《おと》耳に冷ややかなり。
山木は杯を清めて、あらためて田崎にさしつつ
「時に田崎|君《さん》、娘がお世話になっているが、困ったやつで、どうです、御隠居のお気には入りますまいな」
浪子が去られしより、一月あまりたちて、山木は親しく川島|未亡人《いんきょ》の薫陶を受けさすべく行儀見習いの名をもって、娘お豊《とよ》を川島家に入れ置きしなりき。
田崎はほほえみぬ。何か思い出《い》でたるなるべし。
二の三
田崎はほえみぬ。川島未亡人は眉《まゆ》をひそめしなり。
武男が憤然席をけ立てて去りしかの日、母はこの子の後ろ影《すがた》をにらみつつ叫びぬ。
「不孝者めが! どうでも勝手にすッがええ」
母は武男が常によく孝にして、わが意を迎うるに踟※[#「※」は「足+厨」、第3水準1−92−39、164−7]《ちちゅ》せざるを知りぬ。知れるがゆえに、その浪子に対するの愛もとより浅きにあらざるを知りつつも、その両立するあたわざる場合には、一も二もなくかの愛をすててこの孝を取るならんと思えり。思えるがゆえに、その仕打ちのわれながらむしろ果断に過ぐるを思わざるにあらざりしも、なお家のため武男のためと謂《い》いつつ、独断をもて浪子を離別せるなり。武男が憤りの意外にはげしかりしを見るに及んで、母は初めてわが違算を悟り、同時にいわゆる母なるものの決して絶対的権力をその子の上に有するものにあらざるを知りぬ。さきにはその子の愛の浪子に注ぐを一種不快の目をもて見たりしが、今は母の愛母の威光母の恩をもってしてなお死に瀕《ひん》したる一浪子の愛に勝つあたわざるを見るに及び、わが威権全くおちたるように、その子をば全く浪子に奪い去られしように感じて、かつは武男を怒り、かつは実家《さと》に帰り去れる後までもなお浪子をののしれるなり。
なお一つその怒りを激せしものありき。そはおぼろげながら方寸のいずれにかおのが仕打ちの非なるを、知るとにはあらざれど、いささかその疑いのほのかにたなびけるなり。武男が憤りの底にはちとの道理なかりしか。わが仕打ちにはちとのわが領分を越えてその子を侵せし所はなかりしか。眠られぬ夜半《よわ》にひとり奥の間の天井にうつる行燈《あんどう》の影ながめつつ考うるとはなく思えば、いずくにか汝《なんじ》の誤りなり汝の罪なりとささやく声あるように思われて、さらにその胸の乱るるを覚えぬ。世にも強きは自ら是なりと信ずる心なり。腹立たしきは、あるいは人よりあるいはわが衷《うち》なるあるものよりわが非を示されて、われとわが良心の前に悔悟の膝《ひざ》を折る時なり。灸所《きゅうしょ》を刺せば、猛獣は叫ぶ。わが非を知れば、人は怒る。武男が母は、これがために抑《おさ》え難き怒りはなおさらに悶《もん》を加えて、いよいよ武男の怒るべく、浪子の悪《にく》むべきを覚えしなり。武男は席をけって去りぬ。一日また一日、彼は来たりて罪を謝するなく、わびの書だも送り来たらず。母は胸中の悶々を漏らすべきただ一の道として、その怒りをほしいままにして、わずかに自ら慰めつ。武男を怒り、浪子を怒り、かの時を思い出《い》でて怒り、将来を想《おも》うて怒り、悲しきに怒り、さびしきに怒り、詮方《せんかた》なきにまた怒り、怒り怒りて怒りの疲労《つかれ》にようやく夜《よ》も睡《ねぶ》るを得にき。
川島家にては平常《つね》にも恐ろしき隠居が疳癪《かんしゃく》の近ごろはまたひた燃えに燃えて、慣れしおんなばらも幾たびか手荷物をしまいかける間《ま》に、朝鮮事起こりて豊島牙山《ほうとうがざん》の号外は飛びぬ。戦争に行くに告別《いとまごい》の手紙の一通もやらぬ不埒《ふらち》なやつと母は幾たびか怒りしが、世間の様子を聞けば、田舎《いなか》よりその子の遠征を見送らんと出《い》で来る老婆、物を贈り書を送りてその子を励ます母もありというに、子は親に怒り親は子を憤りて一通の書だに取りかわさず、彼は戦地にわれは帝都に、おのおの心に不快の塊《かたまり》をいだいて、もしこのままに永別となるならば、と思うとはなく、ほのかに感じたる武男が母は、ついにののしりののしり我《が》を折りて引きつづき二通の書を戦地にあるその子にやりぬ。
折りかえして戦地より武男が返書は来たれり。返書来たりてより一月あまりにして、一通の電報は佐世保の海軍病院より武男が負傷を報じ来《こ》しぬ。さすがに母が電報をとりし手はわなわなと打ち震いつ。ほどなくその負傷は命《めい》に関するほどにもあらざる由を聞きたれど、なお田崎を遠く佐世保にやりてそのようすを見させしなりき。
二の四
田崎が佐世保より帰りて、子細に武男のようすを報ぜるより、母はやや安堵《あんど》の胸をなでけるが、なおこの上は全快を待ちて一応顔をも見、また戦争済みたらば武男がために早く後妻《こうさい》を迎うるの得策なるを思いぬ。かくして一には浪子を武男の念頭より絶ち、一には川島家の祀《まつり》を存し、一にはまた心の奥の奥において、さきに武男に対せる所行《しわざ》のやや暴に過ぎたりしその罪? 亡《ほろ》ぼしをなさんと思えるなり。
武男に後妻を早く迎えんとは、浪子を離別に決せしその日より早くすでに母の胸中にわき出《い》でし問題なりき。それがために数多からぬ知己親類の嫁しうべき嬢子《むすめ》を心のうちにあれこれと繰り見しが、思わしきものもなくて、思い迷えるおりから、山木は突然娘お豊を行儀見習いと称して川島家に入れ込みぬ。武男が母とて白痴にもあらざれば、山木が底意は必ずしも知らざるにあらず。お豊が必ずしも知徳兼備の賢婦人ならざるをも知らざるにはあらざりき。されどおぼるる者は藁《わら》をもつかむ。武男が妻定めに窮したる母は、山木が望みを幸い、試みにお豊を預かれるなり。
試験の結果は、田崎がほほえめるがごとし。試験者も受験者も共に満足せずして、いわば婢《おんな》ばらがうさはらしの種となるに終われるなり。
初めは平和、次ぎに小口径の猟銃を用いて軽々《けいけい》に散弾を撒《ま》き、ついに攻城砲の恐ろしきを打ち出《いだ》す。こは川島未亡人が何人《なんびと》に対しても用うる所の法なり。浪子もかつてその経験をなめぬ。しかしてその神経の敏に感の鋭かりしほどその苦痛を感ずる事も早かりき。お豊も今その経験をしいられぬ。しかしてその無為にして化する底《てい》の性質は、散弾の飛ぶもほとんどいずこの家に煎《い》る豆ぞと思い貌《がお》に過ぐるより、かの攻城砲は例よりもすみやかに持ち出《いだ》されざるを得ざりしなり。
その心|悠々《ゆうゆう》として常に春がすみのたなびけるごとく、胸中に一点の物無《の》うして人我《にんが》の別定かならぬのみか、往々にして個人の輪郭消えて直ちに動植物と同化せんとし、春の夕べに庭などに立ちたらば、霊《たま》も体《たい》もそのまま霞《かすみ》のうちに融《と》け去りてすくうも手にはたまらざるべきお豊も恋に自己《おのれ》を自覚し初《そ》めてより、にわかに苦労というものも解し初《そ》めぬ。眠き目こすりて起き出《い》づるより、あれこれと追い使われ、その果ては小言|大喝《どなり》。もっとも陰口|中傷《あてこすり》は概して解かれぬままに鵜呑《うの》みとなれど、連《つる》べ放つ攻城砲のみはいかに超然たるお豊も当たりかねて、恋しき人の家《うち》ならずばとくにも逃げ出《いだ》しつべく思えるなり。さりながら父の戒め、おりおり桜川町の宅《うち》に帰りて聞く母の訓《おしえ》はここと、けなげにもなお攻城砲の前に陣取りて、日また日を忍びて過ぎぬ。時にはたまり兼ねて思いぬ、恋はかくもつらきものよ、もはや二度とは人を恋わじと。あわれむべきお豊は、川島未亡人のためにはその乱れがちなる胸の安全管にせられ、家内の婢僕《おんなおとこ》には日ながの慰みにせられ、恋しき人の顔を見ることも無《の》うして、生まれ出《い》でてより例《ためし》なき克己と辛抱をもって当てもなきものを待ちけるなり。
お豊が来たりしより、武男が母は新たに一の懊悩《おうのう》をば添えぬ。失える玉は大にして、去れる婦《よめ》は賢なり。比較になるべき人ならねども、お豊が来たりて身近に使わるるに及びて、なすことごとに気に入るはなくて、武男が母は堅くその心をふさげるにかかわらず、ともすれば昔わがしかりもしののしりもせしその人を思い出《い》でぬ。光を※[#「※」は「媼」の「女」のかわりに「韋」、第3水準1−93−83、168−6]《つつ》める女の、言葉多からず起居《たちい》にしと
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