えがきもてかつ駛《はし》りかつ撃ち、二時すでに半ばならんとする時、敵艦隊を一周し終わって敵のこなたに達しつ。このときわが先鋒隊は比叡赤城を尾《び》する敵の三艦を一戦にけ散らし、にぐるを追うて敵の本陣に駆り入れつつ、一括してかなたより攻撃にかかりぬ。さればわが本隊先鋒隊はあたかも敵の艦隊を中央に取りこめて、左右よりさしはさみ撃たんとすなり。
 第三次の激戦今始まりぬ。わが海軍の精鋭と、敵の海軍の主力と、共に集まりたる彼我の艦隊は、大全速力もて駛《は》せ違い入り乱れつつ相たたかう。あたかも二|竜《りゅう》の長鯨を巻くがごとく黄海の水たぎって一面の泡《あわ》となりぬ。

     一の五

 わが本隊は右、先鋒隊《せんぽうたい》は左、敵の艦隊をまん中に取りこめて、引つ包んで撃たんとす。戦いは今たけなわになりぬ。戦いの熱するに従って、武男はいよいよわれを忘れつ。その昔学校にありて、ベースボールに熱中せし時、勝敗のここしばらくの間に決せんとする大事の時に際するごとに、身のたれたり場所のいずくたるを忘れ、ほとんど物ありて空《くう》よりわれを引き回すように覚えしが、今やあたかもその時に異ならざるの感を覚えぬ。艦隊敵と離れてまた敵に向かい行く間と、艦体一転して左舷敵に向かい右舷しばらく閑なる間とを除くほかは、間断なき号令に声かれ、汗は淋漓《りんり》として満面にしたたるも、さらに覚えず。旗艦を目ざす敵の弾丸ひとえに松島にむらがり、鉄板上に裂け、木板《ぼくはん》焦がれ、血は甲板にまみるるも、さらに覚えず。敵味方の砲声はあたかも心臓の鼓動に時を合わしつつ、やや間《かん》あれば耳辺の寂しきを怪しむまで、身は全く血戦の熱に浮かされつ。されば、部下の砲員も乱れ飛ぶ敵弾を物ともせず、装填《そうてん》し照準を定め牽索《ひきなわ》を張り発射しまた装填するまで、射的場の精確さらに実戦の熱を加えて、火災は起こらんとするに消し、弾《だん》は命ぜざるに運び、死亡負傷はたちまち運び去り、ほとんど士官の命を待つまでもなく、手おのずから動き、足おのずから働きて、戦闘機関は間断なくなめらかに運転せるなり。
 この時目をあぐれば、灰色の煙空をおおい海をおおうて十重二十重《とえはたえ》に渦まける間より、思いがけなき敵味方の檣《ほばしら》と軍艦旗はかなたこなたにほの見え、ほとんど秒ごとに轟然《ごうぜん》たる響きは海を震わして、弾《だん》は弾と空中に相うって爆発し、海は間断なく水柱をけ上げて煮えかえらんとす。
 「愉快! 定遠が焼けるぞ!」かれたる声ふり絞りて分隊長は叫びぬ。
 煙の絶え間より望めば、黄竜旗《こうりょうき》を翻せる敵の旗艦の前部は黄煙渦まき起こりて、蟻《あり》のごとく敵兵のうごめき騒ぐを見る。
 武男を初め砲員一斉に快を叫びぬ。
 「さあ、やれ。やっつけろッ!」
 勢い込んで、砲は一時に打ち出《いだ》しぬ。
 左右より夾撃《きょうげき》せられて、敵の艦隊はくずれ立ちたり。超勇はすでにまっ先に火を帯びて沈み、揚威はとくすでに大破して逃《のが》れ、致遠また没せんとし、定遠火起こり、来遠また火災に苦しむ。こらえ兼ねし敵艦隊はついに定遠鎮遠を残して、ことごとくちりぢりに逃げ出《いだ》しぬ。わが先鋒隊はすかさずそのあとを追いぬ。本隊五艦は残れる定遠鎮遠を撃たんとす。
 第四回の戦い始まりぬ。
 時まさに三時、定遠の前部は火いよいよ燃えて、黄煙おびただしく立ち上れど、なお逃《のが》れず。鎮遠またよく旗艦を護して、二大鉄艦|巍然《ぎぜん》山のごとくわれに向かいつ。わが本隊の五艦は今や全速力をもって敵の周囲を駛《は》せつつ、幾回かめぐりては乱射し、めぐりては乱射す。砲弾は雨のごとく二艦に注ぎぬ。しかも軽装快馬のサラセン武士が馬をめぐらして重鎧《じゅうがい》の十字軍士を射るがごとく、命中する弾丸多くは二艦の重鎧にはねかえされて、艦外に破裂し終わりつ。午後三時二十五分わが旗艦松島はあたかも敵の旗艦と相並びぬ。わがうち出す速射砲弾のまさしく彼が艦腹に中《あた》りて、はねかえりて花火のごとくむなしく艦外に破裂するを望みたる武男は、憤りに堪《た》え得ず、歯をくいしばりて、右の手もて剣の柄《つか》を破《わ》れよと打ちたたき、
 「分隊長、無念です。あ……あれをごらんなさい。畜生《ちくしょう》ッ!」
 分隊長は血眼《ちまなこ》になりて甲板を踏み鳴らし
 「うてッ! 甲板をうて、甲板を! なあに! うてッ!」
 「うてッ!」武男も声ふり絞りぬ。
 歯をくいしばりたる砲員は憤然として勢い猛《たけ》く連《つる》べ放《う》ちに打ち出《いだ》しぬ。
 「も一つ!」
 武男が叫びし声と同時に、霹靂《へきれき》満艦を震動して、砲台内に噴火山の破裂するよと思うその時おそく、雨のごとく飛び散る物にうたれて、武男はどうと倒れぬ。
 敵艦の発《う》ち出《いだ》したる三十サンチの大榴弾《だいりゅうだん》二個、あたかも砲台のまん中を貫いて破裂せしなり。
 「残念ッ!」
 叫びつつはね起きたる武男は、また尻居《しりい》にどうと倒れぬ。
 彼は今|体《たい》の下半におびただしき苦痛を覚えつ。倒れながらに見れば、あたりは一面の血、火、肉のみ。分隊長は見えず。砲台は洞《ほら》のごとくなりて、その間より青きもの揺らめきたり。こは海なりき。
 苦痛と、いうべからざるいたましき臭《か》のために、武男が目は閉じぬ。人のうめく声。物の燃ゆる音。ついで「火災! 火災! ポンプ用意ッ!」と叫ぶ声。同時に走《は》せ来る足音。
 たちまち武男は手ありてわれをもたぐるを覚えつ。手の脚部に触るるとともに、限りなき苦痛は脳頂に響いて、思わず「あ」と叫びつつのけぞり――紅《くれない》の靄《もや》閉ざせる目の前に渦まきて、次第にわれを失いぬ。

     二の一

 大本営所在地広島においては、十|月《げつ》中旬、第一師団はとくすでに金州半島に向かいたれど、そのあとに第二師団の健児広島狭しと入り込み来たり、しかのみならず臨時議会開かれんとして、六百の代議士続々東より来つれば、高帽《こうぼう》腕車《わんしゃ》はいたるところ剣佩《はいけん》馬蹄《ばてい》の響きと入り乱れて、維新当年の京都のにぎあいを再びここ山陽に見る心地《ここち》せられぬ。
 市の目ぬきという大手町《おおてまち》通りは「参謀総長宮殿下」「伊藤内閣総理大臣」「川上陸軍中将」なんどいかめしき宿札うちたるあたりより、二丁目三丁目と下がりては戸ごとに「徴発ニ応ズベキ坪数○○畳、○間」と貼札《はりふだ》して、おおかたの家には士官下士の姓名兵の隊号|人数《にんず》を記《しる》せし紙札を張りたるは、仮兵舎《バラック》にも置きあまりたる兵士の流れ込みたるなり。その間には「○○酒保事務所」「○○組人夫事務取扱所」など看板新しく人影の忙《せわ》しく出入りするあれば、そこの店先にては忙《いそが》わしくラムネ瓶《びん》を大箱に詰め込み、こなたの店はビスケットの箱山のごとく荷造りに汗を流す若者あり。この間を縫うて馬上の将官が大本営の方《かた》に急ぎ行きしあとより、電信局にかけつくるにか鉛筆を耳にさしはさみし新聞記者の車を飛ばして過ぐる、やがて鬱金木綿《うこんもめん》に包みし長刀と革嚢《かばん》を載せて停車場《ステーション》の方より来る者、面《おもて》黒々と日にやけてまだ夏服の破れたるまま宇品《うじな》より今上陸して来つと覚しき者と行き違い、新聞の写真付録にて見覚えある元老の何か思案顔に車を走らすこなたには、近きに出発すべき人夫が鼻歌歌うて往来をぶらつけば、かなたの家の縁さきに剣をとぎつつ健児が歌う北音の軍歌は、川向こうのなまめかしき広島節に和して響きぬ。
 「陸軍御用達」と一間あまりの大看板、その他看板二三枚、入り口の三方にかけつらねたる家の玄関先より往来にかけて粗製|毛布《けっと》防寒服ようのもの山と積みつつ、番頭らしきが若者五六人をさしずして荷造りに忙《せわ》しき所に、客を送りてそそくさと奥より出《い》で来し五十あまりの爺《おやじ》、額やや禿《は》げて目じりたれ左眼の下にしたたかな赤黒子《あかぼくろ》あるが、何か番頭にいいつけ終わりて、入らんとしつつたちまち門外を上手《かみて》に過ぎ行く車を目がけ
 「田崎|君《さん》……田崎|君《さん》」
 呼ぶ声の耳に入らざりしか、そのままに過ぎ行くを、若者して呼び戻さすれば、車は門に帰りぬ。車上の客は五十あまり、色赤黒く、頬《ほお》ひげ少しは白きもまじり、黒紬《くろつむぎ》の羽織に新しからぬ同じ色の中山帽《ちゅうやま》をいただき蹴込《けこ》みに中形の鞄《かばん》を載せたり。呼び戻されてけげんの顔は、玄関に立ちし主人を見るより驚きにかわりて、帽《ぼう》を脱ぎつつ
 「山木さんじゃないか」
 「田崎|君《さん》、珍しいね。いったいいつ来たンです?」
 「この汽車で帰京《かえ》るつもりで」と田崎は車をおり、筵繩《むしろなわ》なんど取り散らしたる間を縫いて玄関に寄りぬ。
 「帰京《かえる》? どこにいつおいでなので?」
 「はあ、つい先日佐世保に行って、今|帰途《かえり》です」
 「佐世保? 武男さん――旦那《だんな》のお見舞?」
 「はあ、旦那の見舞に」
 「これはひどい、旦那の見舞に行きながら往返《いきかえり》とも素通りは実にひどい。娘も娘、御隠居も御隠居だ、はがきの一枚も来ないものだから」
 「何、急ぎでしたからね」
 「だッて、行きがけにちょっと寄ってくださりゃよかったに。とにかくまあお上がんなさい。車は返して。いいさ、お話もあるから。一汽車おくれたッていいだろうじゃないか。――ところで武男さん――旦那の負傷《けが》はいかがでした? 実はわたしもあの時お負傷《けが》の事を聞いたンで、ちょいとお見舞に行かなけりゃならんならんと思ってたンだが、思ったばかりで、――ちょうど第一師団が近々《ちかぢか》にでかけるというンで、滅法忙しかったもンですから、ついその何で、お見舞状だけあげて置いたンでしたが。――ああそうでしたか、別に骨にも障《さわ》らなかったですね、大腿部《だいたいぶ》――はあそうですか。とにかく若い者は結構ですな。お互いに年寄りはちょっと指さきに刺《とげ》が立っても、一週間や二週間はかかるが、旦那なんざお年が若いものだから――とにかく結構おめでたい事でした。御隠居も御安心ですね」
 中腰に構えし田崎は時計を出《いだ》し見つ、座を立たんとするを、山木は引きとめ
 「まあいいさ。幸いのついでで、少し御隠居に差し上げたいものもあるから。夜汽車になさい。夜汽車だとまだ大分《だいぶ》時間がある。ちょっと用を済まして、どこぞへ行って、一杯やりながら話すとしましょう。広島《ここ》の魚《さかな》は実にうまいですぜ」
 口は肴《さかな》よりもなおうまかるべし。

     二の二

 秋の夕日|天安川《あまやすがわ》に流れて、川に臨める某亭《なにがしてい》の障子を金色《こんじき》に染めぬ。二階は貴衆両院議員の有志が懇親会とやら抜けるほどの騒ぎに引きかえて、下の小座敷は婢《おんな》も寄せずただ二人《ふたり》話しもて杯《さかずき》をあぐるは山木とかの田崎と呼ばれたる男なり。
 この田崎は、武男が父の代より執事の役を務めて、今もほど近きわが家《や》より日々川島家に通いては、何くれと忠実《まめやか》に世話をなしつ。如才なく切って回す力量なきかわりには、主家の収入をぬすみてわがふところを肥やす気づかいなきがこの男の取り柄と、武男が父は常に言いぬ。されば川島|未亡人《いんきょ》にも武男にも浅からぬ信任を受けて、今度も未亡人《いんきょ》の命によりてはるばる佐世保に主人の負傷をば見舞いしなり。
 山木は持ったる杯を下に置き、額のあたりをなでながら「実は何ですて、わたしも帰京《かえり》はしても一日泊まりですぐとまた広島《ここ》に引き返すというようなわけで、そんな事も耳に入らなかッたですが。それでは何ですね、あれから浪子さんもよほどわるかッたのですね。なるほどどうもちっとひどかったね。しかしとも
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