的《まと》にもならば、すべて世は一|場《じょう》の夢と過ぎなん、と武男は思いぬ。さらにその母を思いぬ。亡《な》き父を思いぬ。幾年前江田島にありける時を思いぬ。しこうして心は再び病める人の上に返りて
*
「川島君」
肩をたたかれて、打ち驚きたる武男は急に月に背《そむ》きつ。驚かせしは航海長なり。
「実にいい月じゃないか。戦争《いくさ》に行くとは思われんね」
打ちうなずきて、武男はひそかに涙《なんだ》をふり落としつつ双眼鏡をあげたり。月白うして黄海、物のさえぎるなし。
一の三
月落ち、夜《よ》は紫に曙《あ》けて、九月十七日となりぬ。午前六時を過ぐるころ、艦隊はすでに海洋|島《とう》の近くに進みて、まず砲艦|赤城《あかぎ》を島の彖登湾に遣《つか》わして敵の有無を探らしめしが、湾内むなしと帰り報じつ。艦隊さらに進航を続けて、大《だい》、小鹿島《しょうろくとう》を斜めに見つつ大孤山沖にかかりぬ。
午前十一時武男は要ありて行きし士官公室《ワートルーム》を出《い》でてまさに艙口《ハッチ》にかからんとする時、上甲板に声ありて、
「見えたッ!」
同時に靴音の忙《いそが》わしく走《は》せ違うを聞きつ。心臓の鼓動とともに、艙梯《そうてい》に踏みかけたる足ははたと止まりぬ。あたかも梯下《ていか》を通りかかりし一人の水兵も、ふッと立ち止まりて武男と顔見合わしたり。
「川島分隊士、敵艦が見えましたか」
「おう、そうらしい」
言いすてて武男は乱れうつ胸をいたずらにおし静めつつ足早に甲板に上れば、人影《じんえい》走《は》せ違い、呼笛《ふえ》鳴り、信号手は忙わしく信号旗を引き上げおり、艦首には水兵多くたたずみ、艦橋の上には司令長官、艦長、副長、参謀、諸士官、いずれも口を結び目を据えて、はるかに艦外の海を望みおるなり。その視線を趁《お》うて望めば、北の方《かた》黄海の水、天と相合うところに当たりて、黒き糸筋のごとくほのかに立ち上るもの、一、二、三、四、五、六、七、八、九条また十条。
これまさしく敵の艦隊なり。
艦橋の上に立つ一将校|袂《たもと》時計を出《いだ》し見て「一時間半は大丈夫だ。準備ができたら、まず腹でもこしらえて置くですな」
中央に立ちたる一人《ひとり》はうなずき「お待ち遠様。諸君、しっかり頼みますぞ」と言い終わりて髯《ひげ》をひねりつ。
やがて戦闘旗ゆらゆらと大檣《たいしょう》の頂《いただき》高く引き揚げられ、数声のラッパは、艦橋より艦内くまなく鳴り渡りぬ。配置につかんと、艦内に行きかう人の影織るがごとく、檣楼に上る者、機関室に下る者、水雷室に行く者、治療室に入る者、右舷《うげん》に行き、左舷に行き、艦尾に行き、艦橋に上り、縦横に動ける局部の作用たちまち成るを告げて、戦闘の準備は時を移さず整いぬ。あたかも午時《ごじ》に近くして、戦わんとしてまず午餐《ごさん》の令は出《い》でたり。
分隊長を助け、部下の砲員を指揮して手早く右舷速射砲の装填《そうてん》を終わりたる武男は、ややおくれて、士官次室《ガンルーム》に入れば、同僚皆すでに集まりて、箸《はし》下り皿《さら》鳴りぬ。短小少尉はまじめになり、甲板士官《メート》はしきりに額の汗をぬぐいつつうつむきて食らい、年少《としした》の候補生はおりおり他の顔をのぞきつつ、劣らじと皿をかえぬ。たちまち箸をからりと投げて立ちたるは赤シャツ少尉なり。
「諸君、敵を前に控えて悠々《ゆうゆう》と午餐《ひるめし》をくう諸君の勇気は――立花宗茂《たちばなむねしげ》に劣らずというべしだ。お互いにみんなそろって今日《きょう》の夕飯を食うや否やは疑問だ。諸君、別れに握手でもしようじゃないか」
いうより早く隣席にありし武男が手をば無手《むず》と握りて二三度打ちふりぬ。同時に一座は総立ちになりて手を握りつ、握られつ、皿は二個三個からからとテーブルの下に転《まろ》び落ちたり。左頬《さきょう》にあざある一少尉は少軍医の手をとり、
「わが輩が負傷したら、どうかお手柔らかにやってくれたまえ。その賄賂《わいろ》だよ、これは」
と四五度も打ちふりぬ。からからと笑える一座は、またたちまちまじめになりつ。一人去り、二人去りて、果てはむなしき器皿《きべい》の狼藉《ろうぜき》たるを留《とど》むるのみ。
零時二十分、武男は、分隊長の命を帯び、副艦長に打ち合わすべき事ありて、前艦橋に上れば、わが艦隊はすでに単縦陣を形づくり、約四千メートルを隔てて第一遊撃隊の四艦はまっ先に進み、本隊の六艦はわが松島を先登としてこれにつづき、赤城西京丸は本隊の左舷に沿うてしたがう。
仰ぎ見る大檣《たいしょう》の上高く戦闘旗は碧空《へきくう》に羽《は》たたき、煙突の煙《けぶり》まっ黒にまき上り、舳《へさき》は海を劈《さ》いて白波《はくは》高く両舷にわきぬ。将校あるいは双眼鏡をあげ、あるいは長剣の柄《つか》を握りて艦橋の風に向かいつつあり。
はるかに北方の海上を望めば、さきに水天の間に一髪の浮かめるがごとく見えし煙は、一分一分に肥え来たりて、敵の艦隊さながら海中よりわき出《い》づるごとく、煙まず見え、ついで針大《はりだい》の檣《ほばしら》ほの見え、煙突見え、艦体見え、檣頭の旗影また点々として見え来たりぬ。ひときわすぐれて目立ちたる定遠《ていえん》鎮遠《ちんえん》相連《あいなら》んで中軍を固め、経遠《けいえん》至遠《しえん》広甲《こうこう》済遠《さいえん》は左翼、来遠《らいえん》靖遠《せいえん》超勇《ちょうゆう》揚威《ようい》は右翼を固む。西に当たってさらに煙《けぶり》の見ゆるは、平遠《へいえん》広丙《こうへい》鎮東《ちんとう》鎮南《ちんなん》及び六隻の水雷艇なり。
敵は単横陣を張り、我艦隊は単縦陣をとって、敵の中央《まなか》をさして丁字形に進みしが、あたかも敵陣を距《さ》る一万メートルの所に至りて、わが先鋒隊《せんぽうたい》はとっさに針路を左に転じて、敵の右翼をさしてまっしぐらに進みつ。先鋒の左に転ずるとともに、わが艦隊は竜《りゅう》の尾をふるうごとくゆらゆらと左に動いて、彼我の陣形は丁字一変して八字となり、彼は横に張り、われは斜めにその右翼に向かいて、さながら一大コンパス形《けい》をなし、彼進み、われ進みて、相|距《さ》る六千メートルにいたりぬ。この時敵陣の中央に控えたる定遠艦首の砲台に白煙むらむらと渦まき起こり、三十サンチの両弾丸空中に鳴りをうってわが先鋒隊の左舷の海に落ちたり。黄海の水驚いて倒《さかしま》に立ちぬ。
一の四
黄海! 昨夜月を浮かべて白く、今日もさりげなく雲を※[#「※」は草冠に左に酉、右に隹その下にれっか、第3水準1−91−44、151−3]《ひた》し、島影を載せ、睡鴎《すいおう》の夢を浮かべて、悠々《ゆうゆう》として画《え》よりも静かなりし黄海は、今|修羅場《しゅらじょう》となりぬ。
艦橋をおりて武男は右舷速射砲台に行けば、分隊長はまさに双眼鏡をあげて敵の方《かた》を望み、部下の砲員は兵曹《へいそう》以下おおむねジャケットを脱ぎすて、腰より上は臂《ひじ》ぎりのシャツをまといて潮風に黒める筋太の腕をあらわし、白木綿《しろもめん》もてしっかと腹部を巻けるもあり。黙して号令を待ち構えつ。この時わが先鋒隊は敵の右翼を乱射しつつすでに敵前を過ぎ終わらんとし、わが本隊の第一に進める松島は全速力をもって敵に近づきつつあり。双眼鏡をとってかなたを望めば、敵の中央を堅めし定遠鎮遠はまっ先にぬきんでて、横陣やや鈍角をなし、距離ようやく縮まりて二艦の形状《かたち》は遠目にも次第にあざやかになり来たりぬ。卒然として往年かの二艦を横浜の埠頭《ふとう》に見しことを思い出《い》でたる武男は、倍の好奇心もて打ち見やりつ。依然当時の二艦なり。ただ、今は黒煙をはき、白波《はくは》をけり、砲門を開きて、咄々《とつとつ》来たってわれに迫らんとするさまの、さながら悪獣なんどの来たり向こうごとく、恐るるとにはあらで一種やみ難き嫌厭《けんえん》を憎悪《ぞうお》の胸中にみなぎり出《い》づるを覚えしなり。
たちまち海上はるかに一声の雷《らい》とどろき、物ありグーンと空中に鳴りをうって、松島の大檣《たいしょう》をかすめつつ、海に落ちて、二丈ばかり水をけ上げぬ。武男は後頂より脊髄《せきずい》を通じて言うべからざる冷気の走るを覚えしが、たちまち足を踏み固めぬ。他はいかにと見れば、砲尾に群がりし砲員の列一たびは揺らぎて、また動かず。艦いよいよ進んで、三個四個五個の敵弾つづけざまに乱れ飛び、一は左舷につりし端艇を打ち砕き、他はすべて松島の四辺に水柱をけ立てつ。
「分隊長、まだですか」こらえ兼ねたる武男は叫びぬ。時まさに一時を過ぎんとす。「四千メートル」の語は、あまねく右舷及び艦の首尾に伝わりて、照尺整い、牽索《けんさく》握られつ。待ち構えたる一声のラッパ鳴りぬ。「打てッ!」の号令とともに、わが三十二サンチ巨砲を初め、右舷側砲一斉に第一弾を敵艦にほとばしらしつ。艦は震い、舷にそうて煙おびただしく渦まき起こりぬ。
あたかもその答礼として、定遠鎮遠のいずれか放ちたる大弾丸すさまじく空にうなりて、煙突の上二寸ばかりかすめて海に落ちたり。砲員の二三は思わず頭《かしら》を下げぬ。
分隊長顧みて「だれだ、だれだ、お辞儀をするのは?」
武男を初め候補生も砲員もどっと笑いつ。
「さあ、打てッ! しっかり、しっかり――打てッ!」
右舷側砲は連《つる》べ放《う》ちにうち出しぬ。三十二サンチ巨砲も艦を震わして鳴りぬ。後続の諸艦も一斉にうち出しぬ。たちまち敵のうちたる時限弾の一個は、砲台近く破裂して、今しも弾丸を砲尾に運びし砲員の一人武男が後ろにどうと倒れつ。起き上がらんとして、また倒れ、血はさっとほとばしりてしたたかに武男がズボンにかかりぬ。砲員の過半はそなたを顧みつ。
「だれだ? だれだ?」
「西山じゃないか、西山だ、西山だ」
「死んだか」
「打てッ!」分隊長の声鳴りて、砲員皆砲に群がりつ。
武男は手早く運搬手に死者を運ばし、ふりかえってその位置に立たんとすれば、分隊長は武男がズボンに目をつけ
「川島君、負傷じゃないか」
「なあに、今のとばしるです」
「おおそうか。さあ、今の仇《かたき》を討ってやれ」
砲は間断なく発射し、艦は全速力をもてはしる。わが本隊は敵の横陣に対して大いなる弧をえがきつつ、かつ射かつ駛《は》せて、一時三十分過ぎにはすでに敵を半周してその右翼を回り、まさに敵の背後《うしろ》に出《い》でんとす。
第一回の戦い終わりて、第二回の戦いこれより始まらんとすなり。松島の右舷砲しばし鳴りを静めて、諸士官砲員|淋漓《りんり》たる汗をぬぐいぬ。
この時彼我の陣形を見れば、わが先鋒隊はいち早く敵の右翼を乱射して、超勇揚威を戦闘力なきまでに悩ましつつ、一回転して本隊と敵の背後を撃たんとし、わが本隊のうち比叡《ひえい》は速力劣れるがため本隊に続行するあたわずして、大胆にもひとり敵陣の中央を突貫し、死戦して活路を開きしが、火災のゆえに圏外に去り、西京丸また危険をのがれて圏外に去らんとし、敵前に残されし赤城は六百トンの小艦をもって独力奮闘|重囲《ちょうい》を衝《つ》いて、比叡のあとをおわんとす。しかして先鋒の四艦と、本隊の五艦とは、整々として列を乱さず。
敵《てき》の方《かた》を望めば、超勇焼け、揚威戦闘力を失して、敵の右翼乱れ、左翼の三艦は列を乱してわが比叡赤城を追わんとし、その援軍水雷艇は隔離して一辺にあり。しかして定遠鎮遠以下数艦は、わがその背後に回らんとするより、急に舳《へさき》をめぐらして縦陣に変じつつ、けなげにもわが本隊に向かい来たる。
第二回の戦いは今や始まりぬ。わが本隊は西京丸が掲げし「赤城比叡危険」の信号を見るより、速力大なる先鋒隊の四艦を遣《つか》わして、赤城比叡を尾《び》する敵の三艦を追い払わせつつ、一隊五艦依然単縦陣をとって、同じく縦陣をとれる敵艦を中心に大なる蛇《じゃ》の目を
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