指を折りて良人の帰期を待ちぬ。さるにてもこの四五日、東京だよりのはたと絶え、番町の宅よりも、実家《さと》よりも、飯田町《いいだまち》の伯母《おば》よりすらも、はがき一枚来ぬことの何となく気にかかり、今しも日ながの手すさびに山百合を生くとて下葉《したば》を剪《はさ》みおれる浪子は、水さし持ちて入り来たりし姥《うば》のいくに
「ねエ、ばあや、ちょっとも東京のたよりがないのね。どうしたのだろう?」
「さようでございますねエ。おかわりもないンでございましょう。もうそのうちにはまいりましょうよ。こう申しておりますうちにどなたぞいらっしゃるかもわかりませんよ。――ほんとに何てきれいな花でございましょう、ねエ、奥様。これがしおれないうちに旦那《だんな》様がお帰り遊ばすとようございますのに、ねエ奥様」
浪子は手に持ちし山百合の花うちまもりつつ「きれい。でも、山に置いといた方がいいのね、剪《き》るのはかあいそうだわ!」
二人《ふたり》が問答の間《うち》に、一|輛《りょう》の車は別荘の門に近づきぬ。車は加藤子爵夫人を載せたり。川島未亡人の要求をはねつけしその翌日、子爵夫人は気にかかるままに、要を託して車を片岡家に走らせ、ここに初めて川島家の使者が早くも直接談判に来たりて、すでに中将の承諾を得て去りたる由を聞きつ。武男を待つの企ても今はむなしくなりて、かつ驚きかつ嘆きしが、せめては姪《めい》の迎え(手放し置きて、それと聞かさば不慮の事の起こりもやせん、とにかく膝下《しっか》に呼び取って、と中将は慮《おもんばか》れるなり)にと、すぐその足にて逗子には来たりしなり。
「まあ。よく……ちょうど今うわさをしてましたの」
「本当によくまあ……いかがでございます、奥様、ばあやが言《こと》は当たりましてございましょう」
「浪さん、あんばいはどうです? もうあれから何も変わった事もないのかい?」
と伯母の目はちょっと浪子の面《おもて》をかすめて、わきへそれぬ。
「は、快方《いいほう》ですの。――それよりも伯母様はどうなすッたの。たいへんに顔色《おいろ》が悪いわ」
「わたしかい、何ね、少し頭痛がするものだから。――時候のせいだろうよ。――武男さんから便《たより》がありましたか、浪さん?」
「一昨日《おととい》、ね、函館から。もう近々《ちかぢか》に帰りますッて――いいえ、何日《なんち》という事は定《き》まらないのですよ。お土産《みや》があるなンぞ書いてありましたわ」
「そう? おそい――ねエ――もう――もう何時? 二時だ、ね!」
「伯母|様《さん》、何をそんなにそわそわしておいでなさるの? ごゆっくりなさいな。お千鶴《ちず》さんは?」
「あ、よろしくッて、ね」言いつついくが持《も》て来し茶を受け取りしまま、飲みもやらず沈吟《うちあん》じつ。
「どうぞごゆるりと遊ばせ。――奥様、ちょいとお肴《さかな》を見てまいりますから」
「あ、そうしておくれな」
伯母は打ち驚きたるように浪子の顔をちょっと見て、また目をそらしつつ
「およしな。今日はゆっくりされないよ。浪さん――迎えに来たよ」
「エ? 迎え?」
「あ、おとうさまが、病気の事で医師《おいしゃ》と少し相談もあるからちょいと来るようにッてね、――番町の方でも――承知だから」
「相談? 何でしょう」
「――病気の件《こと》ですよ、それからまた――おとうさんも久しく会わンからッてね」
「そうですの?」
浪子は怪訝《けげん》な顔。いくも不審議《ふしぎ》に思える様子。
「でも今夜《こんばん》はお泊まり遊ばすンでございましょう?」
「いいえね、あちでも――医師《いしゃ》も待ってたし、暮れないうちがいいから、すぐ今度の汽車で、ね」
「へエー!」
姥《ばあ》は驚きたるなり。浪子も腑《ふ》に落ちぬ事はあれど、言うは伯母なり、呼ぶは父なり、姑《しゅうと》は承知の上ともいえば、ともかくもいわるるままに用意をば整えつ。
「伯母様何を考え込んでいらッしゃるの? ――看護婦は行かなくもいいでしょうね、すぐ帰るのでしょうから」
伯母は起《た》ちて浪子の帯を直し襟《えり》をそろえつつ「連れておいでなさいね、不自由ですよ」
*
四時ごろには用意成りて、三|挺《ちょう》の車門に待ちぬ。浪子は風通御召《ふうつうおめし》の単衣《ひとえ》に、御納戸色繻珍《おなんどいろしゅちん》の丸帯して、髪は揚巻《あげまき》に山梔《くちなし》の花一輪、革色《かわいろ》の洋傘《かさ》右手《めて》につき、漏れ出《い》づるせきを白綾《しろあや》のハンカチにおさえながら、
「ばあや、ちょっと行って来るよ。あああ、久しぶりに帰京《かえ》るのね。――それから、あの――お単衣《ひとえ》ね、もすこしだけども――あ、いいよ、帰ってからにしましょう」
忍びかねてほろほろ落つる涙を伯母は洋傘《かさ》に押し隠しつ。
九の二
運命の坑《あな》黙々として人を待つ。人は知らず識《し》らずその運命に歩む。すなわち知らずというとも、近づくに従うて一種冷ややかなる気《け》はいを感ずるは、たれもしかる事なり。
伯母の迎え、父に会うの喜びに、深く子細を問わずして帰京の途《みち》に上りし浪子は、車に上るよりしきりに胸打ち騒ぎつ。思えば思うほど腑《ふ》に落ちぬこと多く、ただ頭痛とのみ言い紛らしし伯母がようすのただならぬも深く蔵《かく》せる事のありげに思われて、問わんも汽車の内《うち》人の手前、それもなり難く、新橋に着くころはただこの暗き疑心のみ胸に立ち迷いて、久しぶりなる帰京の喜びもほとんど忘れぬ。
皆人のおりしあとより、浪子は看護婦にたすけられ伯母に従いてそぞろにプラットフォームを歩みつつ、改札口を過ぎける時、かなたに立ちて話しおれる陸軍士官の一人《ひとり》、ふっとこなたを顧みてあたかも浪子と目を見合わしつ。千々岩! 彼は浪子の頭《かしら》より爪先《つまさき》まで一瞥《ひとめ》に測りて、ことさらに目礼しつつ――わらいぬ。その一瞥《いちべつ》、その笑いの怪しく胸にひびきて、頭《かしら》より水そそがれし心地《ここち》せし浪子は、迎えの馬車に打ち乗りしあとまで、病のゆえならでさらに悪寒《おかん》を覚えしなり。
伯母はもの言わず。浪子も黙しぬ。馬車の窓に輝きし夕日は落ちて、氷川町の邸《やしき》に着けば、黄昏《たそがれ》ほのかに栗《くり》の花の香《か》を浮かべつ。門の内外《うちそと》には荷車釣り台など見えて、脇《わき》玄関にランプの火光《あかり》さし、人の声す。物など運び入れしさまなり。浪子は何事のあるぞと思いつつ、伯母と看護婦にたすけられて馬車を下れば、玄関には婢《おんな》にランプとらして片岡子爵夫人たたずみたり。
「おお、これは早く。――御苦労さまでございました」と夫人の目は浪子の面《おもて》より加藤子爵夫人に走りつ。
「おかあさま、お変わりも……おとうさまは?」
「は、書斎に」
おりから「姉《ねえ》さまが来たよ姉さまが」と子供の声にぎやかに二人《ふたり》の幼弟妹《はらから》走り出《い》で来たりて、その母の「静かになさい」とたしなむるも顧みず、左右より浪子にすがりつ。駒子もつづいて出《い》で来たりぬ。
「おお道《みい》ちゃん、毅一《きい》さん。どうだえ? ――ああ駒ちゃん」
道子はすがれる姉《あね》の袂《たもと》を引き動かしつつ「あたしうれしいわ、姉さまはもうこれからいつまでも此家《うち》にいるのね。お道具もすっかり来てよ」
はッと声もなし得ず、子爵夫人も、伯母も、婢《おんな》も、駒子も一斉に浪子の面《おもて》をうちまもりつ。
「エ?」
おどろきし浪子の目は継母の顔より伯母の顔をかすめて、たちまち玄関わきの室も狭しと積まれたるさまざまの道具に注ぎぬ。まさしく良人宅《うち》に置きたるわが箪笥《たんす》! 長持ち! 鏡台!
浪子はわなわなと震いつ。倒れんとして伯母の手をひしととらえぬ。
皆泣きつ。
重やかなる足音して、父中将の姿見え来たりぬ。
「お、おとうさま!![#「!!」は一文字、第3水準1−8−75、137−15]」
「おお、浪か。待って――いた。よく、帰ってくれた」
中将はその大いなる胸に、わなわなと震う浪子をばかき抱《いだ》きつ。
半時の後、家の内《うち》しんとなりぬ。中将の書斎には、父子《おやこ》ただ二人、再び帰らじと此家《ここ》を出《い》でし日別れの訓戒《いましめ》を聞きし時そのままに、浪子はひざまずきて父の膝《ひざ》にむせび、中将は咳《せ》き入る女《むすめ》の背《せな》をおもむろになでおろしつ。
十
「号外! 号外! 朝鮮事件の号外!」と鈴《りん》の音のけたたましゅう呼びあるく新聞売り子のあとより、一|挺《ちょう》の車がらがらと番町なる川島家の門に入りたり。武男は今しも帰り来たれるなり。
武男が帰らば立腹もすべけれど、勝ちは畢竟《ひっきょう》先《せん》の太刀《たち》、思い切って武男が母は山木が吉報をもたらし帰りしその日、善は急げと※[#「※」は「おんなへん+息」、第4水準2−5−70、138−7]《よめ》が箪笥《たんす》諸道具一切を片岡家に送り戻し、ちと殺生ではあったれど、どうせそのままには置かれぬ腫物《はれもの》、切ってしまって安心とこの二三日近ごろになき好機嫌《こうきげん》のそれに引きかえて、若夫婦|方《がた》なる僕婢《めしつかい》は気の毒とも笑止ともいわん方《かた》なく、今にもあれ旦那《だんな》がお帰りなさらば、いかに孝行の方《かた》とて、なかなか一通りでは済むまじとはらはら思っていたりしその武男は今帰り来たれるなり。加藤子爵夫人が急を報ぜしその書は途中に往《ゆ》き違いて、もとより母はそれと言い送らねば、知る由もなき武男は横須賀《よこすか》に着きて暇《いとま》を得《う》るやいな急ぎ帰り来たれるなり。
今奥より出《い》で来たりし仲働きは、茶を入れおりし小間使いを手招き、
「ねエ松ちゃん。旦那さまはちっともご存じないようじゃないか。奥様にお土産《みやげ》なんぞ持っていらッしたよ」
「ほんとにしどいね。どこの世界に、旦那の留守に奥様を離縁しちまう母《おっか》さんがあるものかね。旦那様の身になっちゃア、腹も立つはずだわ。鬼|婆《ばば》め」
「あれくらいいやな婆《ばば》っちゃありゃしない。けちけちの、わからずやの、人をしかり飛ばすがおやくめだからね、なんにもご存じなしのくせにさ。そのはずだよ、ねエ、昔は薩摩《さつま》でお芋《いも》を掘ってたンだもの。わたしゃもうこんな家《うち》にいるのが、しみじみいやになッちゃった」
「でも旦那様も旦那様じゃないか。御自分の奥様が離縁されてしまうのもちょっとも知らんてえのは、あんまり七月のお槍《やり》じゃないかね」
「だッて、そらア無理ゃないわ。遠方にいらっしたンだもの。だれだって、下女《おんな》じゃあるまいし、肝心な子息《むすこ》に相談もしずに、さっさと※[#「※」は「おんなへん+息」、第4水準2−5−70、139−8]《よめ》を追い出してしまおうた思わないわね。それに旦那様もお年が若いからねエ。ほんとに旦那様もおかあいそう――奥様はなおおかあいそうだわ。今ごろはどうしていらッしゃるだろうねエ。ああいやだ――ほウら、婆《ばば》あが怒鳴りだしたよ。松ちゃんせッせとしないと、また八つ当たりでおいでるよ」
奥の一間には母子の問答次第に熱しつ。
「だッて、あの時あれほど申し上げて置いたです。それに手紙一本くださらず、無断で――実にひどいです。実際ひどいです。今日もちょいと逗子に寄って来ると、浪はおらんでしょう、いくに尋ねると何か要があって東京に帰ったというです。変と思ったですが、まさか母《おっか》さんがそんな事を――実にひどい――」
「それはわたしがわるかった。わるかったからこの通り親がわびをしておるじゃなッかい。わたしじゃッて何も浪が悪《にく》かというじゃなし、卿《おまえ》がかあいいばッかいで――」
「
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