、「実家《さと》によ」
 「実家《さと》に? 実家《さと》で養生さすのですか」
 「養生もしようがの、とにかく引き取って――」
 「養生には逗子《ずし》がいいですよ。実家《さと》では子供もいますし、実家《さと》で養生さすくらいなら此家《うち》の方がよっぽどましですからね」
 冷たくなりし茶をすすりつつ、母は少し震い声に「武どん、卿《おまえ》酔っちゃいまいの、わかんふりするのかい?」じっとわが子の顔みつめ「わたしがいうのはな、浪を――実家《さと》に戻すのじゃ」
 「戻す? ……戻す? ――離縁ですな!![#「!!」は一文字、第3水準1−8−75、111−11]」
 「こーれ、声が高かじゃなッか、武どん」うちふるう武男をじっと見て
 「離縁《じえん》、そうじゃ、まあ離縁《じえん》よ」
 「離縁《りえん》! 離縁!![#「!!」は一文字、第3水準1−8−75、111−14] ――なぜですか」
 「なぜ? さっきからいう通り、病気が病気じゃからの」
 「肺病だから……離縁するとおっしゃるのですな? 浪を離縁すると?」
 「そうよ、かあいそうじゃがの――」
 「離縁!!![#「!!!」は一文字、111−18]」
 武男の手よりすべり落ちたる葉巻は火鉢に落ちておびただしくうち煙《けぶ》りぬ。一燈じじと燃えて、夜の雨はらはらと窓をうつ。

     六の三

 母はしきりに烟《けぶ》る葉巻を灰に葬りつつ、少し乗り出して
 「なあ、武どん、あんまいふいじゃから卿《おまえ》もびっくいするなもっともっごあすがの、わたしはもうこれまで幾夜《いくばん》も幾晩も考えた上の話じゃ、そんつもいで聞いてたもらんといけませんぞ。
 そらアもう浪にはわたしも別にこいという不足はなし、卿《おまえ》も気に入っとっこっじゃから、何もこちの好きで離縁《じえん》のし申《も》すじゃごあはんがの、何を言うても病気が病気――」
 「病気は快方《いいほう》に向いてるです」武男は口早に言いて、きっと母親の顔を仰ぎたり。
 「まあわたしの言うことを聞きなさい。――それは目下《いま》の所じゃわるくないかもしらんがの、わたしはよウく医師《おいしゃ》から聞いたが、この病気ばかいは一|時《とき》よかってもまたわるくなる、暑さ寒さですぐまた起こるもんじゃ、肺結核でようなッた人はまあ一人《ひとり》もない、お医者がそう言い申すじゃての。よし浪が今死なんにしたとこが、そのうちまたきっとわるくなッはうけあいじゃ。そのうちにはきっと卿《おまえ》に伝染すッなこらうけあいじゃ、なあ武どん。卿《おまえ》にうつる、子供が出来《でく》る、子供にうつる、浪ばかいじゃない、大事な主人の卿《おまえ》も、の、大事な家嫡《あととり》の子供も、肺病持ちなッて、死んでしもうて見なさい、川島家はつぶれじゃなッかい。ええかい、卿《おまえ》がおとっさまの丹精《たんせい》で、せっかくこれまでになッて、天子様からお直々《じきじき》に取り立ててくださったこの川島家も卿《おまえ》の代でつぶれッしまいますぞ。――そいは、も、浪もかあいそう、卿《おまえ》もなかなかきつか、わたしも親でおってこういう事言い出すなおもしろくない、つらいがの、何をいうても病気が病気じゃ、浪がかあいそうじゃて主人の卿《おまえ》にゃ代えられン、川島家にも代えられン。よウく分別のして、ここは一つ思い切ってたもらんとないませんぞ」
 黙然《もくねん》と聞きいる武男が心には、今日《きょう》見舞い来し病妻の顔ありありと浮かみつ。
 「母《おっか》さん、私《わたくし》はそんな事はできないです」
 「なっぜ?」母はやや声高《こわだか》になりぬ。
 「母《おっか》さん、今そんな事をしたら、浪は死にます!」
 「そいは死ぬかもしれン、じゃが、武どん、わたしは卿《おまえ》の命が惜しい、川島家が惜しいのじゃ!」
 「母《おっか》さん、そうわたしを大事になさるなら、どうかわたしの心をくんでください。こんな事を言うのは異なようですが、実際わたしにはそんな事はどうしてもできないです。まだ慣れないものですから、それはいろいろ届かぬ所はあるですが、しかし母《おっか》さんを大事にして、私《わたくし》にもよくしてくれる、実に罪も何もないあれを病気したからッて離別するなんぞ、どうしても私《わたくし》はできないです。肺病だッてなおらん事はありますまい、現になおりかけとるです。もしまたなおらずに、どうしても死ぬなら、母《おっか》さん、どうか私《わたくし》の妻《さい》で死なしてください。病気が危険なら往来も絶つです、用心もするです。それは母《おっか》さんの御安心なさるようにするです。でも離別だけはどうあッても私《わたくし》はできないです!」
 「へへへへ、武男、卿《おまえ》は浪の事ばッかいいうがの、自分は死んでもかまわンか、川島家はつぶしてもええかい?」
 「母《おっか》さんはわたしのからだばッかりおっしゃるが、そんな不人情な不義理な事して長生きしたッてどうしますか。人情にそむいて、義理を欠いて、決して家のためにいい事はありません。決して川島家の名誉でも光栄でもないです。どうでも離別はできません、断じてできないです」
 難関あるべしとは期《ご》しながら思いしよりもはげしき抵抗に出会いし母は、例の癇癖《かんぺき》のむらむらと胸先《むなさき》にこみあげて、額のあたり筋立ち、こめかみ顫《うご》き、煙管持つ手のわなわなと震わるるを、ようよう押ししずめて、わずかに笑《えみ》を装いつ。
 「そ、そうせき込まんでも、まあ静かに考えて見なさい。卿《おまえ》はまだ年が若かで、世間《よのなか》を知ンなさらンがの、よくいうわ、それ、小の虫を殺しても大の虫は助けろじゃ。なあ。浪は小の虫、卿《おまえ》――川島家は大の虫じゃ、の。それは先方《むこう》も気の毒、浪もかあいそうなよなものじゃが、病気すっがわるかじゃなッか。何と思われたて、川島家が断絶するよかまだええじゃなッか、なあ。それに不義理の不人情の言いなはるが、こんな例《こと》は世間に幾らもあります。家風に合わンと離縁《じえん》する、子供がなかと離縁《じえん》する、悪い病気があっと離縁《じえん》する。これが世間の法、なあ武どん。何の不義理な事も不人情な事もないもんじゃ。全体《いったい》こんな病気のした時ゃの、嫁の実家《さと》から引き取ってええはずじゃ。先方《むこう》からいわンからこつちで言い出すが、何のわるか事恥ずかしか事があッもンか」
 「母《おっか》さんは世間世間とおっしゃるが、何も世間が悪い事をするから自分も悪い事をしていいという法はありません。病気すると離別するなんか昔の事です。もしまたそれが今の世間の法なら、今の世間は打《ぶ》ちこわしていい、打《ぶ》ちこわさなけりゃならんです。母《おっか》さんはこっちの事ばっかりおっしゃるが、片岡の家《うち》だッてせっかく嫁にやった者が病気になったからッて戻されていい気持ちがしますか。浪だってどの顔さげて帰られますか。ひょっとこれがさかさまで、わたしが肺病で、浪の実家《さと》から肺病は険呑《けんのん》だからッて浪を取り戻したら、母《おっか》さんいい心地《こころもち》がしますか。同《おんな》じ事です」
 「いいえ、そいは違う。男と女とはまた違うじゃなッか」
 「同じ事です。情理からいって、同じ事です。わたしからそんな事をいっちゃおかしいようですが、浪もやっと喀血《かっけつ》がとまって少し快方《いいほう》に向いたかという時じゃありませんか、今そんな事をするのは実に血を吐かすようなものです。浪は死んでしまいます。きっと死ぬです。他人だッてそんな事はできンです、母《おっか》さんはわたしに浪を殺せ……とおっしゃるのですか」
 武男は思わず熱き涙をはらはらと畳に落としつ。

     六の四

 母はつと立ち上がって、仏壇より一つの位牌《いはい》を取りおろし、座に帰って、武男の眼前《めさき》に押しすえつ。
 「武男、卿《おまえ》はな、女親じゃからッてわたしを何とも思わんな。さ、おとっさまの前で今《ま》一度言って見なさい、さ言って見なさい。御先祖代々のお位牌も見ておいでじゃ。さ、今《ま》一度言って見なさい、不孝者めが!![#「!!」は一文字、第3水準1−8−75、115−16]」
 きっと武男をにらみて、続けざまに煙管もて火鉢の縁打ちたたきぬ。
 さすがに武男も少し気色《けしき》ばみて「なぜ不孝です?」
 「なぜ? なぜもあッもンか。妻《さい》の肩ばッかい持って親のいう事は聞かんやつ、不孝者じゃなッか。親が育てたからだを粗略《そまつ》にして、御先祖代々の家をつぶすやつは不孝者じゃなッか。不孝者、武男、卿《おまえ》は不孝者、大不孝者じゃと」
 「しかし人情――」
 「まだ義理人情をいうッか。卿《おまえ》は親よか妻《さい》が大事なッか。たわけめが。何いうと、妻、妻、妻ばかいいう、親をどうすッか。何をしても浪ばッかいいう。不孝者めが。勘当すッど」
 武男は唇《くちびる》をかみて熱涙を絞りつつ「母《おっか》さん、それはあんまりです」
 「何があんまいだ」
 「私《わたくし》は決してそんな粗略な心は決して持っちゃいないです。母《おっか》さんにその心が届きませんか」
 「そいならわたしがいう事をなぜきかぬ? エ? なぜ浪を離縁《じえん》せンッか」
 「しかしそれは」
 「しかしもねもンじゃ。さ、武男、妻《さい》が大事か、親が大事か。エ? 家が大事? 浪が――? ――エエばかめ」
 「はっしと火鉢をうちたる勢いに、煙管の羅宇《らう》はぽっきと折れ、雁首《がんくび》は空を飛んではたと襖《ふすま》を破りぬ。途端に「はッ」と襖のあなたに片唾《かたず》をのむ人の気《け》はいせしが、やがて震い声に「御免――遊ばせ」
 「だれ? ――何じゃ?」
 「あの! 電報が……」
 襖開き、武男が電報をとりて見、小間使いが女主人《あるじ》の一|睨《げい》に会いて半ば消え入りつつそこそこに去りしまで、わずか二分ばかりの間――ながら、この瞬間に二人《ふたり》が間の熱やや下《くだ》りて、しばらくは母子《おやこ》ともに黙然《もくねん》と相対しつ。雨はまたひとしきり滝のように降りそそぐ。
 母はようやく口を開きぬ。目にはまだ怒りのひらめけども、語はどこやらに湿りを帯びたり。
 「なあ、武どん。わたしがこういうも、何も卿《おまえ》のためわるかごとすっじゃなかからの。わたしにゃたッた一人《ひとり》の卿《おまえ》じゃ。卿《おまえ》に出世をさせて、丈夫な孫|抱《で》えて見たかばかいがわたしの楽しみじゃからの」
 黙然と考え入りし武男はわずかに頭《かしら》を上げつ。
 「母《おっか》さん、とにかく私《わたくし》も」電報を示しつつ「この通り出発が急になッて、明日《あす》はおそくも帰艦せにゃならんです。一月ぐらいすると帰って来ます。それまではどうかだれにも今夜の話は黙っていてください。どんな事があっても、私《わたくし》が帰って来るまでは、待っていてください」
       *
 あくる日武男はさらに母の保証をとり、さらに主治医を訪《と》いて、ねんごろに浪子の上を託し、午後の汽車にて逗子《ずし》におりつ。
 汽車を下《くだ》れば、日落ちて五日の月薄紫の空にかかりぬ。野川の橋を渡りて、一路の沙《すな》はほのぐらき松の林に入りつ。林をうがちて、桔槹《はねつるべ》の黒く夕空にそびゆるを望める時、思いがけなき爪音《つまおと》聞こゆ。「ああ琴をひいている……」と思えば心《しん》の臓をむしらるる心地《ここち》して、武男はしばし門外に涙《なんだ》をぬぐいぬ。今日は常よりも快かりしとて、浪子は良人《おっと》を待ちがてに絶えて久しき琴取り出《い》でて奏《かな》でしなりき。
 顔色の常ならぬをいぶかられて、武男はただ夜ふかししゆえとのみ言い紛らしつ。約あれば待ちて居し晩餐《ばんさん》の卓《つくえ》に、浪子は良人《おっと》と対《むか》いしが、二人《ふたり》ともに食すすまず。浪子は心細さをさびしき笑《えみ》に紛らして、手ずか
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