ろもち》はどんなでしょうねエ。でも乗ってる人を思いやる人はなお悲しいわ!」
 「なあに」と武男は茶をすすり果てて風月の唐饅頭《とうまんじゅう》二つ三つ一息に平らげながら「なあに、これくらいの風雨《しけ》はまだいいが、南シナ海あたりで二日も三日も大暴風雨《おおしけ》に出あうと、随分こたえるよ。四千何百トンの艦《ふね》が三四十度ぐらいに傾いてさ、山のようなやつがドンドン甲板《かんぱん》を打ち越してさ、艦《ふね》がぎいぎい響《な》るとあまりいい心地《こころもち》はしないね」
 風いよいよ吹き募りて、暴雨一陣|礫《つぶて》のごとく雨戸にほとばしる。浪子は目を閉じつ。いくは身を震わしぬ。三人《みたり》が語《ことば》しばし途絶えて、風雨の音のみぞすさまじき。
 「さあ、陰気な話はもう中止だ。こんな夜《ばん》は、ランプでも明るくして愉快に話すのだ。ここは横須賀よりまた暖かいね、もうこんなに山桜が咲いたな」
 浪子は磁瓶《じへい》にさしし桜の花びらを軽《かろ》くなでつつ「今朝《けさ》老爺《じいや》が山から折って来ましたの。きれいでしょう。――でもこの雨風で山のはよっぽど散りましょうよ。本当にどうしてこんなに潔いものでしょう! そうそう、さっき蓮月《れんげつ》の歌にこんなのがありましたよ『うらやまし心のままにとく咲きて、すがすがしくも散るさくらかな』よく詠《よ》んでありますのねエ」
 「なに? すがすがしくも散る? 僕――わしはそう思うがね、花でも何でも日本人はあまり散るのを賞翫《しょうがん》するが、それも潔白でいいが、過ぎるとよくないね。戦争《いくさ》でも早く討死《うちじに》する方が負けだよ。も少し剛情にさ、執拗《しつこく》さ、気ながな方を奨励したいと思うね。それでわが輩――わしはこんな歌を詠んだ。いいかね、皮切りだからどうせおかしいよ、しつこしと、笑っちゃいかん、しつこしと人はいえども八重桜盛りながきはうれしかりけり、はははは梨本《なしもと》跣足《はだし》だろう」
 「まあおもしろいお歌でございますこと、ねエ奥様」
 「はははは、ばあやの折り紙つきじゃ、こらいよいよ秀逸にきまったぞ」
 話の途切れ目をまたひとしきり激しくなりまさる風雨の音、濤《なみ》の音の立ち添いて、家はさながら大海に浮かべる舟にも似たり。いくは鉄瓶《てつびん》の湯をかうるとて次に立ちぬ。浪子はさしはさみ居し体温器をちょっと燈火《あかり》に透かし見て、今宵《こよい》は常よりも上らぬ熱を手柄顔に良人《おっと》に示しつつ、筒に収め、しばらくテーブルの桜花《さくら》を見るともなくながめていたりしが、たちまちほほえみて
 「もう一年たちますのねエ、よウくおぼえていますよ、あの時馬車に乗って出ると家内《みんな》の者が送って出てますから何とか言いたかったのですけどどうしても口に出ませんの。おほほほ。それから溜池橋《ためいけばし》を渡るともう日が暮れて、十五夜でしょう、まん丸な月が出て、それから山王《さんのう》のあの坂を上がるとちょうど桜花《さくら》の盛りで、馬車の窓からはらはらはらはらまるで吹雪《ふぶき》のように降り込んで来ましてね、ほほほ、髷《まげ》に花びらがとまってましたのを、もうおりるという時、気がついて伯母がとってくれましたッけ」
 武男はテーブルに頬杖《ほおづえ》つき「一年ぐらいたつな早いもんだ。かれこれするとすぐ銀婚式になっちまうよ。はははは、あの時浪さんの澄まし方といったらはッははは思い出してもおかしい、おかしい。どうしてああ澄まされるかな」
 「でも、ほほほほ――あなたも若殿様できちんと澄ましていらッしたわ。ほほほほ手が震えて、杯がどうしても持てなかったンですもの」
 「大分《だいぶ》おにぎやかでございますねエ」といくはにこにこ笑《え》みつつ鉄瓶《てつびん》を持ちて再び入り来つ。「ばあやもこんなに気分が清々《せいせい》いたしたことはありませんでございますよ。ごいっしょにこうしておりますと、昨年伊香保にいた時のような心地《こころもち》がいたしますでございますよ」
 「伊香保はうれしかったわ!」
 「蕨《わらび》狩りはどうだい、たれかさんの御足《おみあし》が大分重かッたっけ」
 「でもあなたがあまりお急ぎなさるんですもの」と浪子はほほえむ。
 「もうすぐ蕨の時候になるね。浪さん、早くよくなッて、また蕨|狩《と》りの競争しようじゃないか」
 「ほほほ、それまでにはきっとなおりますよ」

     四の四

 明くる日は、昨夜《ゆうべ》の暴風雨《あらし》に引きかえて、不思議なほどの上天気。
 帰京は午後と定めて、午前の暖かく風なき間《ま》を運動にと、武男は浪子と打ち連れて、別荘の裏口よりはらはら松の砂丘《すなやま》を過ぎ、浜に出《い》でたり。
 「いいお天気、こんなになろうとは思いませんでしたねエ」
 「実にいい天気だ。伊豆《いず》が近く見えるじゃないか、話でもできそうだ」
 二人《ふたり》はすでに乾《かわ》ける砂を踏みて、今日の凪《なぎ》を地曳《じびき》すと立ち騒ぐ漁師《りょうし》、貝拾う子らをあとにし、新月|形《なり》の浜を次第に人少なき方《かた》に歩みつ。
 浪子はふと思い出《い》でたるように「ねエあなた。あの――千々岩さんはどうしてらッしゃるでしょう?」
 「千々岩? 実に不埒《ふらち》きわまるやつだ。あれから一度も会わンが。――なぜ聞くのかい?」
 浪子は少し考え「イイエ、ね、おかしい事をいうようですが、昨夜《ゆうべ》千々岩さんの夢を見ましたの」
 「千々岩の夢?」
 「はあ。千々岩さんがお母さまと何か話をしていなさる夢を見ましたの」
 「はははは、気沢山《きだくさん》だねエ、どんな話をしていたのかい」
 「何かわからないのですけど、お母さまが何度もうなずいていらっしゃいましたわ。――お千鶴さんが、あの方と山木さんといっしょに連れ立っていなさるのを見かけたって話したから、こんな夢を見たのでしょうね。ねエ、あなた、千々岩さんが我等宅《うち》に出入りするようなことはありますまいね」
 「そんな事はない、ないはずだ。母《おっか》さんも千々岩の事じゃ怒《おこ》っていなさるからね」
 浪子は思わず吐息をつきつ。
 「本当に、こんな病気になってしまって、おかあさまもさぞいやに思っていらッしゃいましょうねエ」
 武男ははたと胸を衝《つ》きぬ。病める妻には、それといわねど、浪子が病みて地を転《か》えしより、武男は帰京するごとに母の機嫌《きげん》の次第に悪《あ》しく、伝染の恐れあればなるべく逗子には遠ざかれとまで戒められ、さまざまの壁訴訟の果ては昂《こう》じて実家《さと》の悪口《わるくち》となり、いささかなだめんとすれば妻をかばいて親に抗するたわけ者とののしらるることも、すでに一再に止《とど》まらざりけるなり。
 「はははは、浪さんもいろいろな心配をするね。そんな事があるものかい。精出して養生して、来春《らいはる》はどうか暇を都合して、母《おっか》さんと三人|吉野《よしの》の花見にでも行くさ――やアもうここまで来てしまッた。疲れたろう。そろそろ帰らなくもいいかい」
 二人は浜尽きて山起こる所に立てるなり。
 「不動まで行きましょう、ね――イイエちっとも疲れはしませんの。西洋まででも行けるわ」
 「いいかい、それじゃそのショールをおやりな。岩がすべるよ、さ、しっかりつかまって」
 武男は浪子をたすけ引きて、山の根の岩を伝える一条の細逕《さいけい》を、しばしば立ちどまりては憩《いこ》いつつ、一|丁《ちょう》あまり行きて、しゃらしゃら滝の下にいたりつ。滝の横手に小さき不動堂あり。松五六本、ひょろひょろと崖《がけ》より秀《ひい》でて、斜めに海をのぞけり。
 武男は岩をはらい、ショールを敷きて浪子を憩わし、われも腰かけて、わが膝《ひざ》を抱《いだ》きつ。「いい凪《なぎ》だね!」
 海は実に凪《な》げるなり。近午の空は天心にいたるまで蒼々《あおあお》と晴れて雲なく、一碧《いっぺき》の海は所々《しょしょ》練《ね》れるように白く光りて、見渡す限り目に立つ襞《ひだ》だにもなし。海も山も春日を浴びて悠々《ゆうゆう》として眠れるなり。
 「あなた!」
 「何?」
 「なおりましょうか」
 「エ?」
 「わたくしの病気」
 「何をいうのかい。なおらずにどうする。なおるよ、きっとなおるよ」
 浪子は良人《おっと》の肩に倚《よ》りつ、「でもひょっとしたらなおらずにしまいはせんかと、そう時々思いますの。実母《はは》もこの病気で亡《な》くなりましたし――」
 「浪さん、なぜ今日に限ってそんな事をいうのかい。だいじょうぶなおる。なおると医師《いしゃ》もいうじゃアないか。ねエ浪さん、そうじゃないか。そらア母《おっか》さんはその病気で――か知らんが、浪さんはまだ二十《はたち》にもならんじゃないか。それに初期だから、どんな事があったってなおるよ。ごらんな、それ内《うち》の親類の大河原《おおかわら》、ね、あれは右の肺がなくなッて、医者が匙《さじ》をなげてから、まだ十五年も生きてるじゃないか。ぜひなおるという精神がありさえすりアきっとなおる。なおらんというのは浪さんが僕を愛せんからだ。愛するならきっとなおるはずだ。なおらずにこれをどうするかい」
 武男は浪子の左手《ゆんで》をとりて、わが唇《くちびる》に当てつ。手には結婚の前、武男が贈りしダイヤモンド入りの指環《ゆびわ》燦然《さんぜん》として輝けり。
 二人《ふたり》はしばし黙して語らず。江の島の方《かた》より出《い》で来たりし白帆《しらほ》一つ、海面《うなづら》をすべり行く。
 浪子は涙に曇る目に微笑を帯びて「なおりますわ、きっとなおりますわ、――あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ! 死ぬなら二人で! ねエ、二人で!」
 「浪さんが亡くなれば、僕も生きちゃおらん!」
 「本当? うれしい! ねエ、二人で!――でもおっ母《かあ》さまがいらッしゃるし、お職分《つとめ》があるし、そう思っておいでなすッても自由にならないでしょう。その時はわたくしだけ先に行って待たなけりゃならないのですねエ――わたくしが死んだら時々は思い出してくださるの? エ? エ? あなた?」
 武男は涙をふりはらいつつ、浪子の黒髪《かみ》をかいなで「ああもうこんな話はよそうじゃないか。早く養生して、よくなッて、ねエ浪さん、二人で長生きして、金婚式をしようじゃないか」
 浪子は良人《おっと》の手をひしと両手に握りしめ、身を投げかけて、熱き涙をはらはらと武男が膝《ひざ》に落としつつ「死んでも、わたしはあなたの妻ですわ! だれがどうしたッて、病気したッて、死んだッて、未来の未来の後《さき》までわたしはあなたの妻ですわ!」

     五の一

 新橋停車場に浪子の病を聞きける時、千々岩の唇《くちびる》に上りし微笑は、解かんと欲して解き得ざりし難問の忽然《こつぜん》としてその端緒を示せるに対して、まず揚がれる心の凱歌《がいか》なりき。にくしと思う川島片岡両家の関鍵《かんけん》は実に浪子にありて、浪子のこの肺患は取りも直さず天特にわれ千々岩安彦のために復讎《ふくしゅう》の機会を与うるもの、病は伝染致命の大患、武男は多く家にあらず、姑※[#「※」は「おんなへん+息」、第4水準2−5−70、103−8]《こそく》の間に軽々《けいけい》一片の言《ことば》を放ち、一指を動かさずして破裂せしむるに何の子細かあるべき。事成らば、われは直ちに飛びのきて、あとは彼らが互いに手を負い負わし生き死に苦しむ活劇を見るべきのみ。千々岩は実にかく思いて、いささか不快の眉《まゆ》を開けるなり。
 叔母の気質はよく知りつ。武男がわれに怒りしほど、叔母はわれに怒らざるもよく知りつ。叔母が常に武男を子供視して、むしろわれ――千々岩の年よりも世故に長《た》けたる頭《こうべ》に依頼するの多きも、よく知りつ。そもそもまた親戚《しんせき》知己も多からず、人をしかり飛ばして内心には心細く覚ゆる叔母が、若夫婦にあき
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