とど》まりつ、ひそかに座を立ちて、熱せる耳を冷ややかなる夕風に吹かせつつ、人なき方《かた》をたどりしなり。
 武男が舅《しゅうと》中将より千々岩に関する注意を受けて帰りし両三日|後《のち》、鰐皮《わにかわ》の手かばんさげし見も知らぬ男突然川島家に尋ね来たり、一通の証書を示して、思いがけなき三千円の返金を促しつ。証書面の借り主は名前も筆跡もまさしく千々岩安彦、保証人の名前は顕然川島武男と署しありて、そのうえ歴々と実印まで押してあらんとは。先方の口上によれば、契約期限すでに過ぎつるを、本人はさらに義務を果たさず、しかも突然いずれへか寓《ぐう》を移して、役所に行けばこの両三日職務上他行したりとかにて、さらに面会を得ざれば、ぜひなくこなたへ推参したる次第なりという。証書はまさしき手続きを踏みたるもの、さらに取り出《いだ》したる往復の書面を見るに、違《まご》う方《かた》なき千々岩が筆跡なり。事の意外に驚きたる武男は、子細をただすに、母はもとより執事の田崎も、さる相談にあずかりし覚えなく、印形《いんぎょう》を貸したる覚えさらになしという。かのうわさにこの事実思いあわして、武男は七分事の様子を推しつ
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