愉快という愉快は世に数あれど、つつがなく長の旅より帰りて、旅衣を平生服《ふだんぎ》の着心地《きごこち》よきにかえ、窓外にほゆる夜あらしの音を聞きつつ居間の暖炉に足さしのべて、聞きなれし時計の軋々《きつきつ》を聞くは、まったき愉快の一なるべし。いわんやまた阿母《あぼ》老健にして、新妻のさらに愛《いと》しきあるをや。葉巻の香《かんば》しきを吸い、陶然として身を安楽椅子の安きに託したる武男は、今まさにこの楽しみを享《う》けけるなり。
 ただ一つの翳《かげ》は、さきに母の口より聞き、今来訪名刺のうちに見たる、千々岩安彦の名なり。今日武男は千々岩につきて忌まわしき事を聞きぬ。旧臘某日の事とか、千々岩が勤むる参謀本部に千々岩にあてて一通のはがきを寄せたる者あり、折節《おりふし》千々岩は不在なりしを同僚の某《なにがし》何心なく見るに、高利貸の名高き何某《なにがし》の貸し金督促状にして、しかのみならずその金額要件は特に朱書してありしという。ただそれのみならず、参謀本部の機密おりおり思いがけなき方角に漏れて、投機商人の利を博することあり。なおその上に、千々岩の姿をあるまじき相場の市《いち》に見たる者あ
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