い》ってしまいますから」
 「ははははもう言わない言わない。そう逃げんでもいいじゃないか」
 「ほほほ、ちょっと着がえをいたしてまいりますよ」

     一の二

 武男は昨年の夏初め、新婚間もなく遠洋航海に出《い》で、秋は帰るべかりしに、桑港《そうこう》に着きける時、器械に修覆を要すべき事の起こりて、それがために帰期を誤り、旧臘《きゅうろう》押しつまりて帰朝しつ。今日正月三日というに、年賀をかねて浪子を伴ない加藤家より浪子の実家《さと》を訪《と》いたるなり。
 武男が母は昔|気質《かたぎ》の、どちらかといえば西洋ぎらいの方なれば、寝台《ねだい》に寝《い》ねて匙《さじ》もて食らうこと思いも寄らねど、さすがに若主人のみは幾分か治外の法権を享《う》けて、十畳のその居間は和洋折衷とも言いつべく、畳の上に緑色の絨氈《じゅうたん》を敷き、テーブルに椅子《いす》二三脚、床には唐画《とうが》の山水をかけたれど、※[#「※」は「木へん」+「眉」、第3水準1−85−86、65−16]間《びかん》には亡父|通武《みちたけ》の肖像をかかげ、開かれざる書筺《しょきょう》と洋籍の棚《たな》は片すみに排斥せられ
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