れで鍛われし夫人もさすがにあしらいかねて、武男という子もあり、鬢《びん》に白髪《しらが》もまじれるさえ打ち忘れて、知事様の奥方男爵夫人と人にいわるる栄耀《えいよう》も物かは、いっそこのつらさにかえて墓守爺《はかもり》の嬶《かか》ともなりて世を楽に過ごして見たしという考えのむらむらとわきたることもありしが、そうこうする間《ま》につい三十年うっかりと過ごして、そのつれなき夫通武が目を瞑《ねぶ》って棺のなかに仰向けに臥《ね》し姿を見し時は、ほっと息はつきながら、さて偽りならぬ涙もほろほろとこぼれぬ。
 涙はこぼれしが、息をつきぬ。息とともに勢いもつきぬ。夫通武存命の間は、その大きなる体と大きなる声にかき消されてどこにいるとも知れざりし夫人、奥の間よりのこのこ出《い》で来たり、見る見る家いっぱいにふくれ出しぬ。いつも主人のそばに肩をすぼめて細くなりて居し夫人を見し輩《もの》は、いずれもあきれ果てつ。もっとも西洋の学者の説にては、夫婦は永くなるほど容貌《かおかたち》気質まで似て来るものといえるが、なるほど近ごろの夫人が物ごし格好、その濃き眉毛《まゆげ》をひくひく動かして、煙管《きせる》片手に相手
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