なここにおる」
 空《くう》を見詰めし浪子の目は次第に動きて、父中将の涙に曇れる目と相会いぬ。
 「おとうさま――おだいじに」
 ほろほろ涙をこぼしつつ、浪子はわずかに右手《めて》を移して、その左を握れる父の手を握りぬ。
 「お母さま」
 子爵夫人は進みて浪子の涙をぬぐいつ。浪子はその手を執り
 「お母さま――御免――遊ばして」
 子爵夫人の唇はふるい、物を得言わず顔打ちおおいて退きぬ。
 加藤子爵夫人は泣き沈む千鶴子を励ましつつ、かわるがわる進みて浪子の手を握り、駒子も進みて姉の床ぎわにひざまずきぬ。わななく手をあげて、浪子は妹の前髪をかいなでつ。
 「駒《こう》ちゃん――さよなら――」
 言いかけて、苦しき息をつけば、駒子は打ち震いつつ一匕《ひとさじ》の赤酒を姉の唇に注ぎぬ。浪子は閉じたる目を開きつつ、見回して
 「毅一《きい》さん――道《みい》ちゃん――は?」
 二人の小児《こども》は子爵夫人の計らいとして、すでに月の初めより避暑におもむけるなり。浪子はうなずきて、ややうっとりとなりつ。
 この時座末に泣き浸りたる幾は、つと身を起こして、力なくたれし浪子の手をひしと両手に握りぬ。
前へ 次へ
全313ページ中301ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 蘆花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング