みたり。
 列車は五|間《けん》過《す》ぎ――十間過ぎぬ。落つばかりのび上がりて、ふりかえりたる浪子は、武男が狂えるごとくかのハンケチを振りて、何か呼べるを見つ。
 たちまちレールは山角《さんかく》をめぐりぬ。両窓のほか青葉の山あるのみ。後ろに聞こゆる帛《きぬ》を裂くごとき一声は、今しもかの列車が西に走れるならん。
 浪子は顔打ちおおいて、父の膝《ひざ》にうつむきたり。

    九の一

 七月七日の夕べ、片岡中将の邸宅《やしき》には、人多く集《つど》いて、皆|低声《こごえ》にもの言えり。令嬢浪子の疾《やまい》革《あらた》まれるなり。
 かねては一月の余もと期せられつる京洛《けいらく》の遊より、中将父子の去月下旬にわかに帰り来たれる時、玄関に出《い》で迎えし者は、医ならざるも浪子の病勢おおかたならず進めるを疑うあたわざりき。はたして医師は、一診して覚えず顔色を変えたり。月ならずして病勢にわかに加われるが上に、心臓に著しき異状を認めたるなりき。これより片岡家には、深夜も燈《ともしび》燃えて、医は間断なく出入りし、月末より避暑におもむくべかりし子爵夫人もさすがにしばしその行を見合わしつ。
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