結ばれず、枕べ近き時計の一二時をうつまでも、目はいよいよさえて、心の奥に一種鋭き苦痛《くるしみ》を覚えしなり。
一年の月日は母子の破綻《はたん》を繕いぬ。少なくも繕えるがごとく見えぬ。母もさすがに喜びてその独子《ひとりご》を迎えたり。武男も母に会うて一の重荷をばおろしぬ。されど二人《ふたり》が間は、顔見合わせしその時より、全く隔てなきあたわざるを武男も母も覚えしなり。浪子の事をば、彼も問わず、これも語らざりき。彼の問わざるは問うことを欲せざるがためにあらずして、これの語らざるは彼の聞かんことを欲するを知らざるがためにはあらざりき。ただかれこれともにこの危険の問題をば務めて避けたるを、たがいにそれと知りては、さしむかいて話途絶ゆるごとにおのずから座の安からざるを覚えしなり。
佐世保病院の贈り物、旅順のかの出来事、それはなくとももとより忘るる時はなきに、今昔ともに棲《す》みし家に帰り来て見れば、見る物ごとにその面影《おもかげ》の忍ばれて、武男は怪しく心地《ここち》乱れぬ。彼女《かれ》は今いずこにおるやらん。わが帰り来しと知らでやあらん。思いは千里も近しとすれど、縁絶えては一里と距《はな
前へ
次へ
全313ページ中282ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 蘆花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング