香保の片《かた》に行きぬ。
四の一
午後三時高崎発上り列車の中等室のかたすみに、人なきを幸い、靴ばきのまま腰掛けの上に足さしのばして、巻莨《まきたばこ》をふかしつつ、新聞を読みおるは千々岩安彦なり。
手荒く新聞を投げやり、
「ばか!」
歯の間よりもの言う拍子に落ちし巻莨を腹立たしげに踏み消し、窓の外に唾《つば》はきしまましばらくたたずみていたるが、やがて舌打ち鳴らして、室の全長《ながさ》を二三|度《ど》往来《ゆきき》して、また腰掛けに戻りつ。手をこまぬきて、目を閉じぬ。まっ黒き眉《まゆ》は一文字にぞ寄りたる。
*
千々岩安彦は孤《みなしご》なりき。父は鹿児島《かごしま》の藩士にて、維新の戦争に討死《うちじに》し、母は安彦が六歳の夏そのころ霍乱《かくらん》と言いけるコレラに斃《たお》れ、六歳の孤児は叔母《おば》――父の妹の手に引き取られぬ。父の妹はすなわち川島武男の母なりき。
叔母はさすがに少しは安彦をあわれみたれども、叔父《おじ》はこれを厄介者に思いぬ。武男が仙台平《せんだいひら》の袴《はかま》はきて儀式の座につく時、小倉袴《こくらばかま》の萎《
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