目をそらしぬ。あたかもその時谷を隔てしかなたの坂の口に武男の姿見え来たりぬ。顔一点|棗《なつめ》のごとくあかく夕日にひらめきつ。
 浪子はほっと息つきたり。
 「浪子さん」
 千々岩は懲りずまにあちこち逸《そ》らす浪子の目を追いつつ「浪子さん、一言《ひとこと》いって置くが、秘密、何事《なに》も秘密に、な、武男君にも、御両親にも。で、なけりゃ――後悔しますぞ」
 電《いなずま》のごとき眼光を浪子の面《おもて》に射つつ、千々岩は身を転じて、俛《ふ》してそこらの草花を摘み集めぬ。
 靴音《くつおと》高く、ステッキ打ち振りつつ坂を上り来し武男「失敬、失敬。あ苦しい、走りずめだッたから。しかしあったよ、ステッキは。――う、浪さんどうかしたかい、ひどく顔色《いろ》が悪いぞ」
 千々岩は今摘みし菫《すみれ》の花を胸の飾紐《ひも》にさしながら、
 「なに、浪子さんはね、君があまりひま取ったもンだから、おおかた迷子《まいご》になったンだろうッて、ひどく心配しなすッたンさ。はッはははは」
 「あはははは。そうか。さあ、そろそろ帰ろうじゃないか」
 三人《みたり》の影法師は相並んで道べの草に曳《ひ》きつつ伊
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