したり。
 「浪子さん」
 一歩近寄りぬ。
 浪子は二三歩引き下がりて、余儀なく顔をあげたりしが、例の黒水晶の目にひたとみつめられて、わき向きたり。
 「おめでとう」
 こなたは無言、耳までさっと紅《くれない》になりぬ。
 「おめでとう。イヤ、おめでとう。しかしめでたくないやつもどこかにいるですがね。へへへへ」
 浪子はうつむきて、杖《つえ》にしたる海老色《えびいろ》の洋傘《パラソル》のさきもてしきりに草の根をほじりつ。
 「浪子さん」
 蛇《へび》にまつわらるる栗鼠《りす》の今は是非なく顔を上げたり。
 「何でございます?」
 「男爵に金、はやっぱりいいものですよ。へへへへへ、いやおめでとう」
 「何をおっしゃるのです?」
 「へへへへへ、華族で、金があれば、ばかでも嫁に行く、金がなけりゃどんなに慕っても唾《つばき》もひッかけん、ね、これが当今《いま》の姫御前《ひめごぜ》です。へへへへ、浪子さんなンざそんな事はないですがね」
 浪子もさすがに血相変えてきっと千々岩をにらみたり。
 「何をおっしゃるンです。失敬な。も一度武男の目前《まえ》で言ってごらんなさい。失敬な。男らしく父に相談も
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