に、そこここに立つ孤松《ひとつまつ》の影長々と横たわりつ。目をあぐれば、遠き山々静かに夕日を浴び、麓《ふもと》の方は夕煙諸処に立ち上る。はるか向こうを行く草負い牛の、しかられてもうと鳴く声空に満ちぬ。
 武男は千々岩と並びて話しながら行くあとより浪子は従いて行く。三人《みたり》は徐《しず》かに歩みて、今しも壑《たに》を渉《わた》り終わり、坂を上りてまばゆき夕日の道に出《い》でつ。
 武男はたちまち足をとどめぬ。
 「やあ、しまった。ステッキを忘れた。なに、さっき休んだところだ。待っててくれたまえ、ひと走り取って来るから――なに、浪さんは待ってればいいじゃないか。すぐそこだ。全速力で駆けて来る」
 と武男はしいて浪子を押しとめ、ハンケチ包みの蕨を草の上にさし置き、急ぎ足に坂を下りて見えずなりぬ。

     三の三

 武男が去りしあとに、浪子は千々岩《ちぢわ》と一間ばかり離れて無言に立ちたり。やがて谷を渉《わた》りてかなたの坂を上り果てし武男の姿小さく見えたりしが、またたちまちかなたに向かいて消えぬ。
 「浪子さん」
 かなたを望みいし浪子は、耳もと近き声に呼びかけられて思わず身を震わ
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