運動する一人《ひとり》の淑女ありき。
やせにやせて砂に落つ影も細々といたわしき姿を、網|曳《ひ》く漁夫、日ごと浜べを歩む病客も皆見るに慣れて、あうごとに頭《かしら》を下げぬ。たれつたうともなくほのかにその身の上をば聞き知れるなりけり。
こは浪子なりき。
惜しからぬ命つれなくもなお永《なが》らえて、また今年の秋風を見るに及べるなり。
*
浪子は去る六月の初め、伯母《おば》に連れられて帰京し、思いも掛けぬ宣告を伝え聞きしその翌日より、病は見る見る重り、前後を覚えぬまで胸を絞って心血の紅《くれない》なるを吐き、医は黙し、家族《やから》は眉《まゆ》をひそめ、自己《おのれ》は旦夕《たんせき》に死を待ちぬ。命は実に一縷《いちる》につながれしなりき。浪子は喜んで死を待ちぬ。死はなかなかうれしかりき。何思う間もなくたちまち深井《しんせい》の暗黒《くらき》におちたるこの身は、何の楽しみあり、何のかいありて、世に永《なが》らえんとはすべき。たれを恨み、たれを恋う、さる念は形をなす余裕《ひま》もなくて、ただ身をめぐる暗黒の恐ろしくいとわしく、早くこのうちを脱《のが》れんと思うのみ。死は
前へ
次へ
全313ページ中240ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 蘆花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング