れなりき。
 この朝軍医が例のごとく来たり診して、傷のいよいよ全癒に向かうに満足を表して去りし後、一封の書は東京なる母より届きぬ。書中には田崎帰りていささか安堵《あんど》せるを書き、かついささか話したき事もあれば、医師の許可《ゆるし》次第ひとまず都合して帰京すべしと書きたり。話したき事! もしくは彼がもっとも忌みかつ恐るるある事にはあらざるか。武男は打ち案じぬ。
 武男はついに帰京せざりき。
 十一月初旬、彼とひとしく黄海に手負いし彼が乗艦松島の修繕終わりて戦地に向かいしと聞くほどもなく、わずかに医師の許容《ゆるし》を得たる武男は、請うて運送船に便乗し、あたかも大連湾を取って同湾《ここ》に碇泊《ていはく》せる艦隊に帰り去りぬ。
 佐世保を出発する前日、武男は二通の書を投函《とうかん》せり。一はその母にあてて。

     四の一

 秋風吹き初《そ》めて、避暑の客は都に去り、病を養う客《ひと》ならでは留《とど》まる者なき九月|初旬《はじめ》より、今ここ十一月|初旬《はじめ》まで、日の温《あたた》かに風なき時をえらみて、五十あまりの婢《おんな》に伴なわれつつ、そぞろに逗子《ずし》の浜べを
前へ 次へ
全313ページ中239ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 蘆花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング