る室をぬけ出《い》でて秋晴《しゅうせい》の庭におりんとしては軍医の小言をくうまでになりつ。この上はただ速《すみ》やかに戦地に帰らんと、ひたすら医の許容《ゆるし》を待てるなりき。
思いすてて塵芥《ちりあくた》よりも軽かりし命は不思議にながらえて、熱去り苦痛薄らぎ食欲復するとともに、われにもあらで生を楽しむ心は動き、従って煩悩《ぼんのう》もわきぬ。蝉《せみ》は殻を脱げども、人はおのれを脱《のが》れ得ざれば、戦いの熱《ねつ》病《やまい》の熱に中絶《なかた》えし記憶の糸はその体《たい》のやや癒《い》えてその心の平生《へいぜい》に復《かえ》るとともにまたおのずから掀《かか》げ起こされざるを得ざりしなり。
されど大疾よく体質を新たにするにひとしく、わずかに一紙を隔てて死と相見たるの経験は、武男が記憶を別様に新たならしめたり。激戦、及びその前後に相ついで起こりし異常の事と異常の感は、風雨のごとくその心を簸《ふる》い撼《うご》かしつ。風雨はすでに過ぎたれど、余波はなお心の海に残りて、浮かぶ記憶はおのずから異なる態をとりぬ。武男は母を憤らず、浪子をば今は世になき妻を思うらんようにその心の龕《がん》に
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