の家《うち》ならずばとくにも逃げ出《いだ》しつべく思えるなり。さりながら父の戒め、おりおり桜川町の宅《うち》に帰りて聞く母の訓《おしえ》はここと、けなげにもなお攻城砲の前に陣取りて、日また日を忍びて過ぎぬ。時にはたまり兼ねて思いぬ、恋はかくもつらきものよ、もはや二度とは人を恋わじと。あわれむべきお豊は、川島未亡人のためにはその乱れがちなる胸の安全管にせられ、家内の婢僕《おんなおとこ》には日ながの慰みにせられ、恋しき人の顔を見ることも無《の》うして、生まれ出《い》でてより例《ためし》なき克己と辛抱をもって当てもなきものを待ちけるなり。
 お豊が来たりしより、武男が母は新たに一の懊悩《おうのう》をば添えぬ。失える玉は大にして、去れる婦《よめ》は賢なり。比較になるべき人ならねども、お豊が来たりて身近に使わるるに及びて、なすことごとに気に入るはなくて、武男が母は堅くその心をふさげるにかかわらず、ともすれば昔わがしかりもしののしりもせしその人を思い出《い》でぬ。光を※[#「※」は「媼」の「女」のかわりに「韋」、第3水準1−93−83、168−6]《つつ》める女の、言葉多からず起居《たちい》にしと
前へ 次へ
全313ページ中230ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 蘆花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング