なければなりませんよ。もう五六年……」と言いさしてはらはらと涙を流し「母さんがいなくなっても母さんをおぼえているかい」と今は肩過ぎしわが黒髪のそのころはまだふっさりと額ぎわまで剪《き》り下げしをかいなでかいなでしたまいし事も記憶の底深く彫《え》りて思い出ぬ日はあらざりき。
一年ほど過ぎて、今の母は来つ。それより後は何もかも変わり果てたることになりぬ。先の母はれっきとしたる士《さむらい》の家より来しなれば、よろず折り目正しき風《ふう》なりしが、それにてもあのように仲よき御夫婦は珍しと婢《おんな》の言えるをきけることもありし。今の母はやはりれっきとした士《さむらい》の家から来たりしなれど、早くより英国に留学して、男まさりの上に西洋風の染《し》みしなれば、何事も先とは打って変わりて、すべて先の母の名残《なごり》と覚ゆるをばさながら打ち消すように片端より改めぬ。父に対しても事ごとに遠慮もなく語らい論ずるを、父は笑いて聞き流し「よしよし、おいが負けじゃ、負けじゃ」と言わるるが常なれど、ある時ごく気に入りの副官、難波《なんば》といえるを相手の晩酌に、母も来たりて座に居しが、父はじろりと母を見てか
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