三
都の花はまだ少し早けれど、逗子あたりは若葉の山に山桜《さくら》咲き初《そ》めて、山また山にさりもあえぬ白雲をかけし四月初めの土曜。今日は朝よりそぼ降る春雨に、海も山も一色《ひといろ》に打ち煙《けぶ》り、たださえ永《なが》き日の果てもなきまで永き心地《ここち》せしが、日暮れ方より大降りになって、風さえ強く吹きいで、戸障子の鳴る響《おと》すさまじく、怒りたける相模灘《さがみなだ》の濤声《とうせい》、万馬《ばんば》の跳《おど》るがごとく、海村戸を鎖《とざ》して燈火《ともしび》一つ漏る家もあらず。
片岡家の別墅《べっしょ》にては、今日は夙《と》く来《く》べかりしに勤務上やみ難き要ありておくれし武男が、夜《よ》に入りて、風雨の暗を衝《つ》きつつ来たりしが、今はすでに衣《い》をあらため、晩餐《ばんさん》を終え、卓によりかかりて、手紙を読みており。相対《あいむか》いて、浪子は美しき巾着《きんちゃく》を縫いつつ、時々針をとどめて良人《おっと》の方《かた》打ちながめては笑《え》み、風雨の音に耳傾けては静かに思いに沈みており。揚巻《あげまき》に結いし緑の髪には、一|朶《だ》の山桜を葉ながらにさし
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