要なしと早くも心を決せるなり。千々岩はうやうやしく一礼して、微笑を帯び、
 「ついごぶさたいたしました」
 「ひどいお見限りようですね」
 「いや、ちょっとお伺い申すのでしたが、いろいろ職務上の要で、つい多忙だものですから――今日《きょう》はどちらへか?」
 「は、ちょっと逗子《ずし》まで――あなたは?」
 「何、ちょっと朋友《ともだち》を迎えにまいったのですが――逗子は御保養でございますか」
 「おや、まだご存じないのでしたね、――病人ができましてね」
 「御病人? どなたで?」
 「浪子です」
 おりからベルの鳴りて人は潮《うしお》のごとく改札口へ流れ行くに、少女《おとめ》は母の袖《そで》引き動かして
 「おかあさま、おそくなるわ」
 千々岩はいち早く子爵夫人が手にしたる四季袋を引っとり、打ち連れて歩みつつ
 「それは――何ですか、よほどお悪いので?」
 「はあ、とうとう肺になりましてね」
 「肺?――結核?」
 「は、ひどく喀血《かっけつ》をしましてね、それでつい先日逗子へまいりました。今日はちょっと見舞に」言いつつ千々岩が手より四季袋を受け取り「ではさようなら、すぐ帰ります、ち
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