胴着を仕上ぐるとて急ぐままに夜《よ》ふかししより再びひき返して、今日二月の十五日というに浪子はいまだ床あぐるまで快きを覚えざるなり。
今年の寒さは、今年の寒さは、と年々に言いなれし寒さも今年こそはまさしくこれまで覚えなきまで、日々吹き募る北風は雪を誘い雨を帯びざる日にもさながら髄を刺し骨をえぐりて、健やかなるも病み、病みたるは死し、新聞の広告は黒囲《くろぶち》のみぞ多くなり行く。この寒さはさらぬだに強からぬ浪子のかりそめの病を募らして、取り立ててはこれという異なれる病態もなけれど、ただ頭《かしら》重く食《しょく》うまからずして日また日を渡れるなり。
今二点を拍ちし時計の蜩《ひぐらし》など鳴きたらんように凛々《りんりん》と響きしあとは、しばし物音絶えて、秒を刻み行く時計のかえって静けさを加うるのみ。珍しくうららかに浅碧《あさみどり》をのべし初春の空は、四枚の障子に立て隔てられたれど、悠々《ゆうゆう》たる日の光くまなく紙障に栄《は》えて、余りの光は紙を透かして浪子が仰ぎ臥《ふ》しつつ黒スコッチの韈《くつした》を編める手先と、雪より白き枕《まくら》に漂う寝乱れ髪の上にちらちらおどりぬ。左
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