つわられ、あわれ見る人もなき庭のすみに新日高川《しんひたかがわ》の一幕を出《いだ》せしが、ふと思いつく由ありて、
 「千々岩はまだ来ないか、お豊さんちょっと見て来てくれたまえ」
 「千々岩さんは日暮れでなけりゃ来ないわ」
 「千々岩は時々来るのかね」
 「千々岩さんは昨日《きのう》も来たわ、おそくまで奥の小座敷でおとっさんと何か話していたわ」
 「うん、そうか――しかしもう来たかもしれん、ちょっと見て来てくれないかね」
 「わたしいやよ」
 「なぜ!」
 「だって、あなた逃げて行くでしょう、なんぼわたしがいやだって、浪子さんが美しいって、そんなに人を追いやるものじゃなくってよ」
 「油断せば雨にもならんずる空模様に、百計つきたる武男はただ大踏歩《だいとうほ》して逃げんとする時、
 「お嬢様、お嬢様」
 と婢《おんな》の呼び来たりて、お豊を抑留しつ。このひまにと武男はつと藪《やぶ》を回りて、二三十歩足早に落ち延び、ほっと息つき
 「困った女《やつ》だ」
 とつぶやきながら、再度の来襲の恐れなき屈強の要害――座敷の方《かた》へ行きぬ。

     二の二

 日は入り、客は去りて、昼の騒ぎはただ台所の方《かた》に残れる時、羽織|袴《はかま》は脱ぎすてて、煙草《たばこ》盆をさげながら、おぼつかなき足踏みしめて、廊下伝いに奥まりたる小座敷に入り来し主人の山木、赤|禿《は》げの前額《ひたえ》の湯げも立ち上らんとするを、いとどランプの光に輝かしつつ、崩《くず》るるようにすわり、
 「若|旦那《だんな》も、千々岩君《ちぢわさん》も、お待たせ申して失敬でがした。はははは、今日はおかげで非常の盛会……いや若旦那はお弱い、失敬ながらお弱い、軍人に似合いませんよ。御大人《ごたいじん》なんざそれは大したものでしたよ。年は寄っても、山木兵造――なあに、一升やそこらははははは大丈夫ですて」
 千々岩は黒水晶の目を山木に注ぎつ。
 「大分《だいぶ》ご元気ですな。山木君、もうかるでしょう?」
 「もうかるですとも、はははは――いやもうかるといえば」と山木は灰だらけにせし煙管《きせる》をようやく吸いつけ、一服吸いて「何です、その、今度あの○○○○が売り物に出るそうで、実は内々様子を探って見たが、先方もいろいろ困っている際だから、案外安く話が付きそうですて。事業の方は、大有望さ。追い追い内地雑居と来る
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