。あたかもその日千々岩は手紙を寄せて、明日《あす》山木の宴会に会いたしといい越したり。
 その顔だに見ば、問うべき事を問い、言うべき事を言いて早帰らんと思いし千々岩は来たらず、しきりに波立つ胸の不平を葉巻の煙《けぶり》に吐きもて、武男は崖道《がけみち》を上り、明竹《みんちく》の小藪《こやぶ》を回り、常春藤《ふゆつた》の陰に立つ四阿《あずまや》を見て、しばし腰をおろせる時、横手のわき道に駒下駄《こまげた》の音して、はたと豊子《とよこ》と顔見合わせつ。見れば高島田、松竹梅の裾《すそ》模様ある藤色縮緬《ふじいろちりめん》の三|枚襲《まいがさね》、きらびやかなる服装せるほどますます隙《すき》のあらわれて、笑止とも自らは思わぬなるべし。その細き目をばいとど細うして、
 「ここにいらっしたわ」
 三十サンチ巨砲の的には立つとも、思いがけなき敵の襲来に冷やりとせし武男は、渋面作りてそこそこに兵を収めて逃げんとするを、あわてて追っかけ
 「あなた」
 「何です?」
 「おとっさんが御案内して庭をお見せ申せってそう言いますから」
 「案内? 案内はいらんです」
 「だって」
 「僕は一人《ひとり》で歩く方が勝手だ」
 これほど手強く打ち払えばいかなる強敵《ごうてき》も退散すべしと思いきや、なお懲りずまに追いすがりて
 「そうお逃げなさらんでもいいわ」
 武男はひたと当惑の眉《まゆ》をひそめぬ。そも武男とお豊の間は、その昔父が某県を知れりし時、お豊の父山木もその管下にありて常に出入したれば、子供もおりおり互いに顔合わせしが、まだ十一二の武男は常にお豊を打ちたたき泣かしては笑いしを、お豊は泣きつつなお武男にまつわりつ。年移り所変わり人|長《た》けて、武男がすでに新夫人を迎えける今日までも、お豊はなお当年の乱暴なる坊ちゃま、今は川島男爵と名乗る若者に対してはかなき恋を思えるなり。粗暴なる海軍士官も、それとうすうす知らざるにあらねば、まれに山木に往来する時もなるべく危うきに近よらざる方針を執りけるに、今日はおぞくも伏兵の計《はかりごと》に陥れるを、またいかんともするあたわざりき。
 「逃げる? 僕は何も逃げる必要はない。行きたい方に行くのだ」
 「あなた、それはあんまりだわ」
 おかしくもあり、ばからしくもあり、迷惑にもあり、腹も立ちし武男行かんとしては引きとめられ、逃《のが》れんとしてはま
前へ 次へ
全157ページ中49ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 蘆花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング