起こされようよう胸なでおろし参らせ候 愚痴と存じながらも何とやら気に相成りそれにつけても御《おん》帰りが待ち遠く存じ上げ参らせ候 何も何もお帰りの上にと日々《にちにち》東の空をながめ参らせ候 あるいは行き違いになるや存ぜず候えどもこの状はハワイホノルル留め置きにて差し上げ参らせ候(下略)
[1字下げここまで]
    十月 日[#この行ここまで相対的に字が小さい、ここからは下揃え、下から3字上げ]浪より
   恋しき恋しき恋しき
     武男様
        御もとへ
[#改丁]


  中 編

     一の一

 今しも午後八時を拍《う》ちたる床の間の置き時計を炬燵《こたつ》の中より顧みて、川島未亡人は
 「八時――もう帰りそうなもんじゃが」
 とつぶやきながら、やおらその肥え太りたる手をさしのべて煙草《たばこ》盆を引き寄せ、つづけざまに二三服吸いて、耳|傾《かたぶ》けつ。山の手ながら松の内《うち》の夜《よ》は車東西に行き違いて、隣家《となり》には福引きの興やあるらん、若き男女《なんにょ》の声しきりにささめきて、おりおりどっと笑う声も手にとるように聞こえぬ。未亡人は舌打ち鳴らしつ。
 「何をしとっか。つッ。赤坂へ行くといつもああじゃっで……武《たけ》も武、浪《なみ》も浪、実家《さと》も実家《さと》じゃ。今時の者はこれじゃっでならん」
 膝《ひざ》立て直さんとして、持病のリュウマチスの痛所《いたみ》に触れけん、「あいたあいた」顔をしかめて癇癪《かんしゃく》まぎれに煙草盆の縁手荒に打ちたたき「松、松松」とけたたましく小間使いを呼び立つる。その時おそく「お帰りい」の呼び声勇ましく二|挺《ちょう》の車がらがらと門に入りぬ。
 三が日の晴着《はれぎ》の裾《すそ》踏み開きて走《は》せ来たりし小間使いが、「御用?」と手をつかえて、「何《なん》をうろうろしとっか、早《はよ》玄関に行きなさい」としかられてあわてて引き下がると、引きちがえに
 「母《おっか》さん、ただいま帰りました」
 と凛々《りり》しき声に前《さき》を払わして手套《てぶくろ》を脱ぎつつ入り来る武男のあとより、外套《がいとう》と吾妻《あずま》コートを婢《おんな》に渡しつつ、浪子は夫に引き沿うてしとやかに座につき、手をつかえつ。
 「おかあさま、大層おそなはりました」
 「おおお帰りかい。大分《だいぶ》ゆっくり
前へ 次へ
全157ページ中41ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 蘆花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング