らせ候
 わたくし事も今になりていろいろ勉強の足らざりしを憾《うら》み参らせ候 家政の事は女の本分なればよくよく心を用い候よう平生《かねがね》父より戒められ候事とて宅におり候ころよりなるたけそのつもりにて居《い》参らせ候えども何を申しても女のあさはかにそのような事はいつでもできるように思いいたずらに過ごし参らせ候より今となりてあの事も習って置けばよかりしこの事も忘れしと思いあたる事のみ多く困り入り参らせ候 英語の勉強も御仰《おんおお》せの言《こと》も有之《これあり》候えばぜひにと心がけ参らせ候えども机の前にばかりすわり候ては母上様の御思召《おぼしめし》もいかがと存ぜられ今しばらくは何よりもまず家政のけいこに打ちかかり申したく何とぞ何とぞ悪《あ》しからず思召《おぼしめし》のほど願い上げ参らせ候
 誠におはずかしき事に候えどもどうやらいたし候節はさびしさ悲しさのやる瀬なく早く早く早く御《おん》目にかかりたく翼あらばおそばに飛んでも行きたく存じ参らせ候事も有之《これあり》夜ごと日ごとにお写真とお艦《ふね》の写真を取り出《い》でてはながめ入り参らせ候 万国地理など学校にては何げなく看過《みす》ごしにいたし候ものの近ごろは忘れし地図など今さらにとりいでて今日はお艦《ふね》のこのあたりをや過ぎさせたまわん明日《あす》は明後日《あさって》はと鉛筆にて地図の上をたどり居参らせ候 ああ男に生まれしならば水兵ともなりて始終おそば離れずおつき申さんをなどあらぬ事まで心に浮かびわれとわが身をしかり候ても日々物思いに沈み参らせ候 これまで何心なく目もとめ申さざりし新聞の天気予報など今|在《いま》すあたりはこのほかと知りながら風など警戒のいで候節は実に実に気にかかり参らせ候 何とぞ何とぞお尊体《からだ》を御《おん》大切に……(下文略)
[#1字下げここまで]
[#この行、下揃え、下から3字上げ]浪より
   恋しき
     武男様

     〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 [#これより手紙文、1字下げ]
(上略)近ごろは夜々《よるよる》御《おん》姿の夢に入り実に実に一日千秋の思いをなしおり参らせ候 昨夜もごいっしょに艦《ふね》にて伊香保に蕨《わらび》とりにまいり候ところふとたれかが私《わたくし》どもの間に立ち入りてお姿は遠くなりわたくしは艦《ふね》より落ちると見て魘《おそ》われ候ところを母上様に
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