し候。加藤の伯父さんは相変わらず木鋏《きばさみ》が手を放れ申すまじきか。
幾姥《いくばあ》は帰り候由。何ゆえに候や存ぜず候えども、実に残念の事どもに候。浪さんより便《たより》あらばよろしくよろしく伝えらるべく、帰りには姥《ばあ》へ沢山|土産《みやげ》を持って来ると御伝《おんつた》えくだされたく候。実に愉快な女にて小生も大好きに候ところ、赤坂の方に帰りしは残念に候。浪さんも何かと不自由にさびしかるべくと存じ候。加藤の伯母様や千鶴子《ちずこ》さんは時々まいられ候や。
千々岩《ちぢわ》はおりおりまいり候由。小生らは誠に親類少なく、千々岩はその少なき親類の一|人《にん》なれば、母上も自然頼みに思《おぼ》す事に候。同人をよく待《たい》するも母上に孝行の一に有之《これある》べく候。同人も才気あり胆力ある男なれば、まさかの時の頼みにも相成るべく候。(下略)
[#1字下げここまで]
香港にて[#この行、下揃え、下から5字上げ、相対的に字が小さい]
七月 日[#この行ここまで相対的に字が小さい、ここからは下揃え、下から3字上げ]武 男
お浪どの
[#これより手紙文、1字下げ]
母上に別紙(略之)読んでお聞かせ申し上げられたく候。
当池には四五日|碇泊《ていはく》、食糧など買い入れ、それよりマニラを経て豪州シドニーへ、それよりニューカレドニア、フィジー諸島を経て、サンフランシスコへ、それよりハワイを経て帰国のはずに候。帰国は多分秋に相成り申すべく候。
手紙はサンフランシスコ日本領事館留め置きにして出したまえ。
[#1字下げここまで]
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[#これより手紙文、1字下げ]
(前文略)去る五月は浪さんと伊香保にあり、蕨《わらび》採りて慰みしに今は南半球なる豪州シドニーにあり、サウゾルンクロッスの星を仰いでその時を想《おも》う。奇妙なる世の中に候。先年練習艦にて遠洋航海の節は、どうしても時々|船暈《ふなよい》を感ぜしが、今度は無病息災われながら達者なるにあきれ候。しかし今回は先年に覚えなき感情身につきまとい候。航海中当直の夜《よ》など、まっ黒き空に金剛石をまき散らしたるような南天を仰ぎて、ひとり艦橋の上に立つ時は、何とも言い難き感が起こりて、浪さんの姿が目さきにちらちらいたし(女々《めめ》しと笑いたもうな)候。同僚の前ではさもあらばあ
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