任して、われは真一文字にわが分をかせぐ者ぞ」とある人情|博士《はかせ》はのたまいける。
 しかし凡夫《ぼんぷ》は平均を目の前に求め、その求むるや物体運動の法則にしたがいて、水の低きにつくがごとく、障害の少なき方に向かう。されば川島未亡人も三十年の辛抱、こらえこらえし堪忍《かんにん》の水門、夫の棺の蓋《ふた》閉ずるより早く、さっと押し開いて一度に切って流しぬ。世に恐ろしと思う一人《ひとり》は、もはやいかに拳《こぶし》を伸ばすもわが頭《こうべ》には届かぬ遠方へ逝《ゆ》きぬ。今まで黙りて居しは意気地《いくじ》なきのにはあらず、夫死してもわれは生きたりと言い顔に、知らず知らず積みし貸し金、利に利をつけてむやみに手近の者に督促《はた》り始めぬ。その癇癪も、亡くなられし男爵は英雄|肌《はだ》の人物だけ、迷惑にもまたどこやらに小気味よきところもありたるが、それほどの力量《ちから》はなしにわけわからず、狭くひがみてわがまま強き奥様より出《い》でては、ただただむやみにつらくて、奉公人は故男爵の時よりも泣きける。
 浪子の姑はこの通りの人なりき。

     六の二

 丸髷《まるまげ》を揚巻《あげまき》にかえしそのおりなどは、まだ「お嬢様、おやすくお伴《とも》いたしましょう」と見当違いの車夫《くるまや》に言われて、召使いの者に奥様と呼びかけられて返事にたゆとう事はなきようになれば、花嫁の心もまず少しは落ちつきて、初々《ういうい》しさ恥ずかしさの狭霧《さぎり》に朦朧《ぼいやり》とせしあたりのようすもようよう目に分《わか》たるるようになりぬ。
 家ごとに変わるは家風、御身《おんみ》には言って聞かすまでもなけれど、構えて実家《さと》を背負うて先方《さき》へ行きたもうな、片岡浪は今日限り亡くなって今よりは川島浪よりほかになきを忘るるな。とはや晴れの衣装着て馬車に乗らんとする前に父の書斎に呼ばれてねんごろに言い聞かされしを忘れしにはあらねど、さて来て見れば、家風の相違も大抵の事にはあらざりけり。
 資産《しんだい》はむしろ実家《さと》にも優《まさ》りたらんか。新華族のなかにはまず屈指《ゆびおり》といわるるだけ、武男の父が久しく県令知事務めたる間《ま》に積みし財《たから》は鉅万《きょまん》に上りぬ。さりながら実家《さと》にては、父中将の名声|海内《かいだい》に噪《さわ》ぎ、今は予備におれど交際広
前へ 次へ
全157ページ中34ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 蘆花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング