政府に友少なく、浪子を媒《なかだち》せる加藤子爵などはその少なき友の一|人《にん》なりき。甲東没後はとかく志を得ずして世をおえつ。男爵を得しも、実は生まれ所のよかりしおかげ、という者もありし。されば剛情者、わがまま者、癇癪《かんしゃく》持ちの通武はいつも怏々《おうおう》として不平を酒杯《さけ》に漏らしつ。三合入りの大杯たてつけに五つも重ねて、赤鬼のごとくなりつつ、肩を掉《ふ》って県会に臨めば、議員に顔色《がんしょく》ある者少なかりしとか。さもありつらん。
 されば川島家はつねに戒厳令の下《もと》にありて、家族は避雷針なき大木の下に夏住むごとく、戦々|兢々《きょうきょう》として明かし暮らしぬ。父の膝《ひざ》をばわが舞踏|場《ば》として、父にまさる遊び相手は世になきように幼き時より思い込みし武男のほかは、夫人の慶子はもとより奴婢《ぬひ》出入りの者果ては居間の柱まで主人が鉄拳《てっけん》の味を知らぬ者なく、今は紳商とて世に知られたるかの山木ごときもこの賜物《たまもの》を頂戴《ちょうだい》して痛み入りしこともたびたびなりけるが、何これしきの下され物、もうけさして賜わると思えば、なあに廉《やす》い所得税だ、としばしば伺候しては戴《いただ》きける。右の通りの次第なれば、それ御前の御機嫌《ごきげん》がわるいといえば、台所の鼠《ねずみ》までひっそりとして、迅雷《じんらい》一声奥より響いて耳の太き下女手に持つ庖丁《ほうちょう》取り落とし、用ありて私宅へ来る属官などはまず裏口に回って今日《きょう》の天気予報を聞くくらいなりし。
 三十年から連れ添う夫人お慶の身になっては、なかなかひと通りのつらさにあらず。嫁に来ての当座はさすがに舅《しゅうと》や姑《しゅうとめ》もありて夫の気質そうも覚えず過ごせしが、ほどなく姑舅と相ついで果てられし後は、夫の本性ありありと拝まれて、夫人も胸をつきぬ。初め五六|度《たび》は夫人もちょいと盾《たて》ついて見しが、とてもむだと悟っては、もはや争わず、韓信《かんしん》流に負けて匍伏《ほふく》し、さもなければ三十六計のその随一をとりて逃げつ。そうするうちにはちっとは呼吸ものみ込みて三度の事は二度で済むようになりしが、さりとて夫の気質は年とともに改まらず。末の三四年は別してはげしくなりて、不平が煽《あお》る無理酒の焔《ほのお》に、燃ゆるがごとき癇癪を、二十年の上もそ
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