かた》に向かいぬ。
 打ち明けていえば、子爵夫人はあまり水色の眼鏡をば好まぬなり。教育の差《ちがい》、気質の異なり、そはもちろんの事として、先妻の姉――これが始終心にわだかまりて、不快の種子《たね》となれるなり。われひとり主人中将の心を占領して、われひとり家に女|主人《あるじ》の威光を振るわんずる鼻さきへ、先妻の姉なる人のしばしば出入して、亡《な》き妻の面影《おもかげ》を主人の眼前《めさき》に浮かぶるのみか、口にこそ出《いだ》さね、わがこれをも昔の名残《なごり》とし疎《うと》める浪子、姥《うば》の幾らに同情を寄せ、死せる孔明《こうめい》のそれならねども、何かにつけてみまかりし人の影をよび起こしてわれと争わすが、はなはだ快からざりしなり。今やその浪子と姥の幾はようやくに去りて、治外の法権|撤《と》れしはやや心安きに似たれど、今もかの水色眼鏡の顔見るごとに、髣髴《ほうふつ》墓中の人の出《い》で来たりてわれと良人《おっと》を争い、主婦の権力を争い、せっかく立てし教育の方法家政の経綸《けいりん》をも争わんずる心地《ここち》して、おのずから安からず覚ゆるなりけり。
 水色の眼鏡は蝦夷錦《えぞにしき》の信玄袋《しんげんぶくろ》より瓶詰《びんづめ》の菓子を取り出《いだ》し
 「もらい物ですが、毅一《きい》さんと道《みい》ちゃんに。まだ学校ですか、見えませんねエ。ああ、そうですか。――それからこれは駒《こま》さんに」
 と紅茶を持て来し紅《くれない》のリボンの少女に紫陽花《あじさい》の花簪《はなかんざし》を与えつ。
 「いつもいつもお気の毒さまですねエ、どんなに喜びましょう」と言いつつ子爵夫人は件《くだん》の瓶をテーブルの上に置きぬ。
 おりから婢《おんな》の来たりて、赤十字社のお方の奥様に御面会なされたしというに、子爵夫人は会釈して場をはずしぬ。室を出《い》でける時、あとよりつきて出《い》でし少女《おとめ》を小手招きして、何事をかささやきつ。小戻りして、窓のカーテンの陰に内《うち》の話を立ち聞く少女《おとめ》をあとに残して、夫人は廊下伝いに応接間の方《かた》へ行きたり。紅のリボンのお駒というは、今年十五にて、これも先妻の腹なりしが、夫人は姉の浪子を疎《うと》めるに引きかえてお駒を愛しぬ。寡言《ことばすくな》にして何事も内気なる浪子を、意地わるき拗《す》ね者とのみ思い誤りし夫人は、
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