い》ややせまりて、頬《ほお》のあたりの肉寒げなるが、疵《きず》といわば疵なれど、瘠形《やさがた》のすらりとしおらしき人品《ひとがら》。これや北風《ほくふう》に一輪|勁《つよ》きを誇る梅花にあらず、また霞《かすみ》の春に蝴蝶《こちょう》と化けて飛ぶ桜の花にもあらで、夏の夕やみにほのかににおう月見草、と品定めもしつべき婦人。
春の日脚《ひあし》の西に傾《かたぶ》きて、遠くは日光、足尾《あしお》、越後境《えちござかい》の山々、近くは、小野子《おのこ》、子持《こもち》、赤城《あかぎ》の峰々、入り日を浴びて花やかに夕ばえすれば、つい下の榎《えのき》離れて唖々《ああ》と飛び行く烏《からす》の声までも金色《こんじき》に聞こゆる時、雲|二片《ふたつ》蓬々然《ふらふら》と赤城の背《うしろ》より浮かび出《い》でたり。三階の婦人は、そぞろにその行方《ゆくえ》をうちまもりぬ。
両手|優《ゆた》かにかき抱《いだ》きつべきふっくりとかあいげなる雲は、おもむろに赤城の巓《いただき》を離れて、さえぎる物もなき大空を相並んで金の蝶のごとくひらめきつつ、優々として足尾の方《かた》へ流れしが、やがて日落ちて黄昏《たそがれ》寒き風の立つままに、二片《ふたつ》の雲今は薔薇色《ばらいろ》に褪《うつろ》いつつ、上下《うえした》に吹き離され、しだいに暮るる夕空を別れ別れにたどると見しもしばし、下なるはいよいよ細りていつしか影も残らず消ゆれば、残れる一片《ひとつ》はさらに灰色に褪《うつろ》いて朦乎《ぼいやり》と空にさまよいしが、
果ては山も空もただ一色《ひといろ》に暮れて、三階に立つ婦人の顔のみぞ夕やみに白かりける。
一の二
「お嬢――おやどういたしましょう、また口がすべって、おほほほほ。あの、奥様、ただいま帰りましてございます。おや、まっくら。奥様エ、どこにおいで遊ばすのでございます?」
「ほほほほ、ここにいるよ」
「おや、ま、そちらに。早くおはいり遊ばせ。お風邪《かぜ》を召しますよ。旦那《だんな》様はまだお帰り遊ばしませんでございますか?」
「どう遊ばしたんだろうね?」と障子をあけて内《うち》に入りながら「何《なん》なら帳場《した》へそう言って、お迎人《むかい》をね」
「さようでございますよ」言いつつ手さぐりにマッチをすりてランプを点《つ》くるは、五十あまりの老女。
おりから階段
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