《はしご》の音して、宿の女中《おんな》は上り来つ。
「おや、恐れ入ります。旦那様は大層ごゆっくりでいらっしゃいます。……はい、あのいましがた若い者をお迎えに差し上げましてございます。もうお帰りでございましょう。――お手紙が――」
「おや、お父《とう》さまのお手紙――早くお帰りなさればいいに!」と丸髷《まるまげ》の婦人はさもなつかしげに表書《うわがき》を打ちかえし見る。
「あの、殿様の御状で――。早く伺いたいものでございますね。おほほほほ、きっとまたおもしろいことをおっしゃってでございましょう」
女中《おんな》は戸を立て、火鉢《ひばち》の炭をついで去れば、老女は風呂敷包《ふろしきづつ》みを戸棚《とだな》にしまい、立ってこなたに来たり、
「本当に冷えますこと! 東京《あちら》とはよほど違いますでございますねエ」
「五月に桜が咲いているくらいだからねエ。ばあや、もっとこちらへお寄りな」
「ありがとうございます」言いつつ老女はつくづく顔打ちながめ「うそのようでございますねエ。こんなにお丸髷《まげ》にお結い遊ばして、ちゃんとすわっておいで遊ばすのを見ますと、ばあやがお育て申し上げたお方様とは思えませんでございますよ。先奥様《せんおくさま》がお亡《な》くなり遊ばした時、ばあやに負《おぶ》されて、母《かあ》様母様ッてお泣き遊ばしたのは、昨日《きのう》のようでございますがねエ」はらはらと落涙し「お輿入《こしいれ》の時も、ばあやはねエあなた、あの立派なごようすを先奥様がごらん遊ばしたら、どんなにおうれしかったろうと思いましてねエ」と襦袢《じゅばん》の袖《そで》引き出して目をぬぐう。
こなたも引き入れられるるようにうつぶきつ、火鉢にかざせし左手《ゆんで》の指環《ゆびわ》のみ燦然《さんぜん》と照り渡る。
ややありて姥《うば》は面《おもて》を上げつ。「御免遊ばせ、またこんな事を。おほほほ年が寄ると愚痴っぽくなりましてねエ。おほほほほ、お嬢――奥様もこれまではいろいろ御苦労も遊ばしましたねエ。本当によく御辛抱遊ばしましたよ。もうもうこれからはおめでたい事ばかりでございますよ、旦那様はあの通りおやさしいお方様――」
「お帰り遊ばしましてございます」
と女中《おんな》の声|階段《はしご》の口に響きぬ。
一の三
「やあ、くたびれた、くたびれた」
足袋《たび》
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