に「浪さん」を連れて京阪《けいはん》の遊《ゆう》をした事、川島家《かわしまけ》からよこした葬式の生花《しょうか》を突っ返した事、単にこれだけが話のなかの事実であった。婦人は鼻をつまらせつつしみじみ話す。自分は床柱《とこばしら》にもたれてぼんやりきいている。妻《さい》は頭《かしら》をたれている。日はいつか暮れてしもうた。古びた田舎家《いなかや》の間内《まうち》が薄ぐらくなって、話す人の浴衣《ゆかた》ばかり白く見える。臨終のあわれを話して「そうお言いだったそうですってね――もうもう二度と女なんかに生まれはしない」――言いかけて婦人はとうとう嘘唏《きょき》して話をきってしもうた。自分の脊髄《せきずい》をあるものが電《いなずま》のごとく走った。
 婦人は間もなく健康になって、かの一|夕《せき》の談《はなし》を置《お》き土産《みやげ》に都に帰られた。逗子の秋は寂しくなる。話の印象はいつまでも消えない。朝な夕な波は哀音を送って、蕭瑟《しょうしつ》たる秋光の浜に立てば影なき人の姿がつい眼前《めさき》に現われる。かあいそうは過ぎて苦痛になった。どうにかしなければならなくなった。そこで話の骨に勝手な肉をつけて一編未熟の小説を起草して国民新聞に掲げ、後一冊として民友社から出版したのがこの小説不如帰である。
 で、不如帰のまずいのは自分が不才のいたすところ、それにも関せず読者の感を惹《ひ》く節《ふし》があるなら、それは逗子の夏の一夕にある婦人の口に藉《か》って訴えた「浪子」が自ら読者諸君に語るのである。要するに自分は電話の「線《はりがね》」になったまでのこと。
  明治四十二年二月二日  昔の武蔵野今は東京府下[#この行はポイントを下げ、「昔の武蔵野今は東京府下」は地より11字上げ]
  北多摩郡千歳村粕谷の里にて[#この行はポイントを下げ、は地より7字上げ]
  徳冨健次郎識[#この行はポイントを上げ、は地より3字上げ]
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   不如帰《ほととぎす》

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  上 編

     一の一

 上州《じょうしゅう》伊香保千明《いかほちぎら》の三階の障子《しょうじ》開きて、夕景色《ゆうげしき》をながむる婦人。年は十八九。品よき丸髷《まげ》に結いて、草色の紐《ひも》つけし小紋縮緬《こもんちりめん》の被布《ひふ》を着たり。
 色白の細面《ほそおもて》、眉《まゆ》の間《あわ
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