なんざ親父《おやじ》が何万という身代をこしらえて置いたのだから、頑固だッて正直だッて好きなまねしていけるのだがね。吾輩《ぼく》のごときは腕一本――」
 「いやすっかり忘れていた」と赤黒子はちょいと千々岩の顔を見て、懐中より十円|紙幣《さつ》五枚取り出《いだ》し「いずれ何はあとからとして、まあ車代に」
 「遠慮なく頂戴《ちょうだい》します」手早くかき集めて内《うち》ポケットにしまいながら「しかし山木さん」
 「?」
 「なにさ、播《ま》かぬ種は生《は》えんからな!」
 山木は苦笑《にがわら》いしつ。千々岩が肩ぽんとたたいて「食えン男だ、惜しい事だな、せめて経理局長ぐらいに!」
 「はははは。山木さん、清正《きよまさ》の短刀は子供の三尺三寸よりか切れるぜ」
 「うまく言ったな――しかし君、蠣殻町《かきがらちょう》だけは用心したまえ、素人《しろうと》じゃどうしてもしくじるぜ」
 「なあに、端金《はしたがね》だからね――」
 「じゃいずれ近日、様子がわかり次第――なに、車は出てから乗った方が大丈夫です」
 「それじゃ――家内も御挨拶《ごあいさつ》に出るのだが、娘が手離されんでね」
 「お豊《とよ》さんが? 病気ですか」
 「実はその、何です。この一月ばかり病気をやってな、それで家内が連れて此家《ここ》へ来ているですて。いや千々岩さん、妻《かか》だの子だの滅多に持つもんじゃないね。金もうけは独身に限るよ。はッははは」
 主人《あるじ》と女中《おんな》に玄関まで見送られて、千々岩は山木の別邸を出《い》で行きたり。

     四の三

 千々岩を送り終わりて、山木が奥へ帰り入る時、かなたの襖《ふすま》すうと開きて、色白きただし髪薄くしてしかも前歯二本不行儀に反《そ》りたる四十あまりの女入り来たりて山木のそばに座を占めたり。
 「千々岩さんはもうお帰り?」
 「今追っぱらったとこだ。どうだい、豊《とよ》は?」
 反歯《そっぱ》の女はいとど顔を長くして「ほんまに良人《あんた》。彼女《あれ》にも困り切りますがな。――兼《かね》、御身《おまえ》はあち往《い》っておいで。今日《きょう》もなあんた、ちいと何かが気に食わんたらいうて、お茶碗《ちゃわん》を投げたり、着物を裂いたりして、しようがありまへんやった。ほんまに十八という年をして――」
 「いよいよもって巣鴨《すがも》だね。困ったやつだ
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