引き裂きて屑籠《くずかご》に投げ込みぬ。
 さりながら千々岩はいかなる場合にも全くわれを忘れおわる男にあらざれば、たちまちにして敗余の兵を収めつ。ただ心外なるはこの上かの艶書《ふみ》の一条もし浪子より中将に武男に漏れなば大事の便宜《たより》を失う恐れあり。持ち込みよき浪子の事なれば、まさかと思えどまたおぼつかなく、高崎に用ありて行きしを幸い、それとなく伊香保に滞留する武男夫妻を訪《と》うて、やがて探りを入れたるなり。
 いまいましきは武男――
       *
 「武男、武男」と耳近にたれやら呼びし心地《ここち》して、愕《がく》と目を開きし千々岩、窓よりのぞけば、列車はまさに上尾《あげお》の停車場《ステーション》にあり。駅夫が、「上尾上尾」と呼びて過ぎたるなり。
 「ばかなッ!」
 ひとり自らののしりて、千々岩は起《た》ちて二三度車室を往《ゆ》き戻りつ。心にまとう或《あ》るものを振り落とさんとするように身震いして、座にかえりぬ。冷笑の影、目にも唇《くちびる》にも浮かびたり。
 列車はまたも上尾を出《い》でて、疾風のごとく馳《は》せつつ、幾駅か過ぎて、王子《おうじ》に着きける時、プラットフォムの砂利踏みにじりて、五六人ドヤドヤと中等室に入り込みぬ。なかに五十あまりの男の、一楽《いちらく》の上下《にまい》ぞろい白縮緬《しろちりめん》の兵児帯《へこおび》に岩丈な金鎖をきらめかせ、右手《めて》の指に分厚《ぶあつ》な金の指環《ゆびわ》をさし、あから顔の目じり著しくたれて、左の目下にしたたかなる赤黒子《あかぼくろ》あるが、腰かくる拍子にフット目を見合わせつ。
 「やあ、千々岩さん」
 「やあ、これは……」
 「どちらへおいででしたか」言いつつ赤黒子は立って千々岩がそばに腰かけつ。
 「はあ、高崎まで」
 「高崎のお帰途《かえり》ですか」ちょっと千々岩の顔をながめ、少し声を低めて「時にお急ぎですか。でなけりゃ夜食でもごいっしょにやりましょう」
 千々岩はうなずきたり。

     四の二

 橋場の渡しのほとりなるとある水荘の門に山木兵造《やまきひょうぞう》別邸とあるを見ずば、某《なにがし》の待合《まちあい》かと思わるべき家作《やづく》りの、しかも音締《ねじ》めの響《おと》しめやかに婀娜《あだ》めきたる島田の障子《しょうじ》に映るか、さもなくば紅《くれない》の毛氈《もうせん》敷か
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