しょ》の前にいたり、うなずきて立ち止まり、垣《かき》の小門の閂《かんぬき》を揺《うご》かせば、手に従って開きつ。正面には年経たる石塔あり。士官はつと入りて見回し、横手になお新しき墓標の前に立てり。松は墓標の上に翠蓋《すいがい》をかざして、黄ばみ紅《あか》らめる桜の落ち葉点々としてこれをめぐり、近ごろ立てしと覚ゆる卒塔婆《そとば》は簇々《ぞくぞく》としてこれを護《まも》りぬ。墓標には墨痕《ぼっこん》あざやかに「片岡浪子の墓」の六字を書けり。海軍士官は墓標をながめて石のごとく突っ立ちたり。
 やや久しゅうして、唇ふるい、嗚咽《おえつ》は食いしばりたる歯を漏れぬ。
       *
 武男は昨日帰れるなり。
 五か月|前《ぜん》山科《やましな》の停車場に今この墓標の下《もと》に臥《ふ》す人と相見し彼は、征台の艦中に加藤子爵夫人の書に接して、浪子のすでに世にあらざるを知りつ。昨日帰りし今日は、加藤子爵夫人を訪《と》いて、午《ひる》過ぐるまでその話に腸《はらわた》を断ち、今ここに来たれるなり。
 武男は墓標の前に立ちわれを忘れてやや久しく哭《こく》したり。
 三年の幻影はかわるがわる涙の狭霧《さぎり》のうちに浮かみつ。新婚の日、伊香保の遊、不動祠畔《ふどうしはん》の誓い、逗子《ずし》の別墅《べっしょ》に別れし夕べ、最後に山科《やましな》に相見しその日、これらは電光《いなずま》のごとくしだいに心に現われぬ。「早く帰ってちょうだい!」と言いし言《ことば》は耳にあれど、一たび帰れば彼女《かれ》はすでにわが家《や》の妻ならず、二たび帰りし今日はすでにこの世の人ならず。
 「ああ、浪さん、なぜ死んでしまった!」
 われ知らず言いて、涙《なんだ》は新たに泉とわきぬ。
 一陣の風頭上を過ぎて、桜の葉はらはらと墓標をうって翻りつ。ふと心づきて武男は涙《なんだ》を押しぬぐいつつ、墓標の下《もと》に立ち寄りて、ややしおれたる花立ての花を抜きすて、持《も》て来し白菊をさしはさみ、手ずから落ち葉を掃い、内ポッケットをかい探りて一通の書を取り出《い》でぬ。
 こは浪子の絶筆なり。今日加藤子爵夫人の手より受け取りて読みし時の心はいかなりしぞ。武男は書をひらきぬ。仮名書きの美しかりし手跡は痕《あと》もなく、その人の筆かと疑うまで字はふるい墨はにじみて、涙のあと斑々《はんはん》として残れるを見ずや。
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