ぬ。去年の夏に新たに建てられし離家《はなれ》の八畳には、燭台《しょくだい》の光ほのかにさして、大いなる寝台《ねだい》一つ据えられたり。その雪白なるシーツの上に、目を閉じて、浪子は横たわりぬ。
 二年に近き病に、やせ果てし躯《み》はさらにやせて、肉という肉は落ち、骨という骨は露《あら》われ、蒼白《あおじろ》き面《おもて》のいとど透きとおりて、ただ黒髪のみ昔ながらにつやつやと照れるを、長く組みて枕上《まくら》にたらしたり。枕もとには白衣の看護婦が氷に和せし赤酒《せきしゅ》を時々筆に含まして浪子の唇《くちびる》を湿《うるお》しつ。こなたには今一人の看護婦とともに、目くぼみ頬落ちたる幾がうつむきて足をさすりぬ。室内しんしんとして、ただたちまち急にたちまちかすかになり行く浪子の呼吸の聞こゆるのみ。
 たちまち長き息つきて、浪子は目を開き、かすかなる声を漏らしつ。
 「伯母さまは――?」
 「来ましたよ」
 言いつつしずかに入り来たりし加藤子爵夫人は、看護婦がすすむる椅子をさらに臥床《とこ》近く引き寄せつ。
 「少しはねむれましたか。――何? そうかい。では――」
 看護婦と幾を顧みつつ
 「少しの間《ま》あっちへ」
 三人《みたり》を出しやりて、伯母はなお近く椅子を寄せ、浪子の額にかかるおくれ毛をなで上げて、しげしげとその顔をながめぬ。浪子も伯母の顔をながめぬ。
 ややありて浪子は太息《といき》とともに、わなわなとふるう手をさしのべて、枕の下より一通の封ぜし書《もの》を取り出《いだ》し
 「これを――届けて――わたしがなくなったあとで」
 ほろほろとこぼす涙をぬぐいやりつつ、加藤子爵夫人は、さらに眼鏡《めがね》の下よりはふり落つる涙をぬぐいて、その書をしかとふところにおさめ、
 「届けるよ、きっとわたしが武男さんに手渡すよ」
 「それから――この指環《ゆびわ》は」
 左手《ゆんで》を伯母の膝《ひざ》にのせつ。その第四指に燦然《さんぜん》と照るは一昨年《おととし》の春、新婚の時武男が贈りしなり。去年去られし時、かの家に属するものをばことごとく送りしも、ひとりこれのみ愛《お》しみて手離すに忍びざりき。
 「これは――持《も》って――行きますよ」
 新たにわき来る涙をおさえて、加藤夫人はただうなずきたり。浪子は目を閉じぬ。ややありてまた開きつ。
 「どうしていらッしゃる――でしょう
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