名医の術も施すに由なく、幾が夜ごと日ごとの祈念もかいなく、病は日《ひび》に募りぬ。数度の喀血《かっけつ》、その間々《あいあい》には心臓の痙攣《けいれん》起こり、はげしき苦痛のあとはおおむね※[#「※」は「りっしんべん+昏」、第4水準2−12−54、212−10]々《こんこん》としてうわ言を発し、今日は昨日より、翌日《あす》は今日より、衰弱いよいよ加わりつ。その咳嗽《がいそう》を聞いて連夜《よごと》ねむらぬ父中将のわが枕《まくら》べに来るごとに、浪子はほのかに笑《え》みて苦しき息を忍びつつ明らかにもの言えど、うとうととなりては絶えず武男の名をば呼びぬ。
       *
 今日明日と医師のことに戒めしその今日は夕べとなりて、部屋《へや》部屋は燈《ともしび》あまねく点《つ》きたれど、声高《こわだか》にもの言う者もなければ、しんしんとして人ありとは思われず。今皮下注射を終えたるあとをしばし静かにすとて、廊下伝いに離家《はなれ》より出《い》で来し二人の婦人は、小座敷の椅子《いす》に倚《よ》りつ。一人は加藤子爵夫人なり。今一人はかつて浪子を不動祠畔《ふどうしはん》に救いしかの老婦人なり。去年の秋の暮れに別れしより、しばらく相見ざりしを、浪子が父に請いて使いして招けるなり。
 「いろいろ御親切に――ありがとうございます。姪《あれ》も一度はお目にかかってお礼を申さなければならぬと、そう言い言いいたしておりましたのですが――お目にかかりまして本望でございましょう」

 加藤子爵夫人はわずかに口を開きぬ。
 答うべき辞《ことば》を知らざるように、老婦人はただ太息《といき》つきて頭《かしら》を下げつ。ややありて声を低くし
 「で――はどちらにおいでなさいますので?」
 「台湾にまいったそうでございます」
 「台湾!」
 老婦人は再び太息つきぬ。
 加藤子爵夫人はわき来る涙をかろうじておさえつ。
 「でございませんと、あの通り思っているのでございますから、世間体はどうともいたして、あわせもいたしましょうし、暇乞《いとまごい》もいたさせたいのですが――何をいっても昨日今日台湾に着いたばかり、それがほかと違って軍艦に乗っているのでございますから――」
 おりから片岡夫人入り来つ。そのあとより目を泣きはらしたる千鶴子は急ぎ足に入り来たりて、その母を呼びたり。

    九の二

 日は暮れ
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