かえりつ。
 「もうようございます」
 浪子はわずかに笑《え》みを作りぬ。
       *
 山科《やましな》に着きて、東行の列車に乗りぬ。上等室は他に人もなく、浪子は開ける窓のそばに、父はかなたに坐《ざ》して新聞を広げつ。
 おりから煙を噴《は》き地をとどろかして、神戸《こうべ》行きの列車は東より来たり、まさに出《い》でんとするこなたの列車と相ならびたり。客車の戸を開閉《あけたて》する音、プラットフォームの砂利《じゃり》踏みにじりて駅夫の「山科、山科」と叫び過ぐる声かなたに聞こゆるとともに、汽笛鳴りてこなたの列車はおもむろに動き初めぬ。開ける窓の下《もと》に坐して、浪子はそぞろに移り行くあなたの列車をながめつ。あたかもかの中等室の前に来し時、窓に頬杖《ほおづえ》つきたる洋装の男と顔見合わしたり。
 「まッあなた!」
 「おッ浪さん!」
 こは武男なりき。
 車は過ぎんとす。狂せるごとく、浪子は窓の外にのび上がりて、手に持てるすみれ色のハンケチを投げつけつ。
 「おあぶのうございますよ、お嬢様」
 幾は驚きてしかと浪子の袂を握りぬ。
 新聞手に持ちたるまま中将も立ち上がりて窓の外を望みたり。
 列車は五|間《けん》過《す》ぎ――十間過ぎぬ。落つばかりのび上がりて、ふりかえりたる浪子は、武男が狂えるごとくかのハンケチを振りて、何か呼べるを見つ。
 たちまちレールは山角《さんかく》をめぐりぬ。両窓のほか青葉の山あるのみ。後ろに聞こゆる帛《きぬ》を裂くごとき一声は、今しもかの列車が西に走れるならん。
 浪子は顔打ちおおいて、父の膝《ひざ》にうつむきたり。

    九の一

 七月七日の夕べ、片岡中将の邸宅《やしき》には、人多く集《つど》いて、皆|低声《こごえ》にもの言えり。令嬢浪子の疾《やまい》革《あらた》まれるなり。
 かねては一月の余もと期せられつる京洛《けいらく》の遊より、中将父子の去月下旬にわかに帰り来たれる時、玄関に出《い》で迎えし者は、医ならざるも浪子の病勢おおかたならず進めるを疑うあたわざりき。はたして医師は、一診して覚えず顔色を変えたり。月ならずして病勢にわかに加われるが上に、心臓に著しき異状を認めたるなりき。これより片岡家には、深夜も燈《ともしび》燃えて、医は間断なく出入りし、月末より避暑におもむくべかりし子爵夫人もさすがにしばしその行を見合わしつ。
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