?」
「武男さんはもう台湾《あちら》に着いて、きっといろいろこっちを思いやっていなさるでしょう。近くにさえいなされば、どうともして、ね、――そうおとうさまもおっしゃっておいでだけれども――浪さん、あんたの心尽くしはきっとわたしが――手紙も確かに届けるから」
ほのかなる笑《えみ》は浪子の唇《くちびる》に上りしが、たちまち色なき頬のあたり紅《くれない》をさし来たり、胸は波うち、燃ゆばかり熱き涙はらはらと苦しき息をつき、
「ああつらい! つらい! もう――もう婦人《おんな》なんぞに――生まれはしませんよ。――あああ!」
眉《まゆ》をあつめ胸をおさえて、浪子は身をもだえつ。急に医を呼びつつ赤酒を含ませんとする加藤夫人の手にすがりて半ば起き上がり、生命《いのち》を縮むるせきとともに、肺を絞って一|盞《さん》の紅血を吐きつ。※[#「※」は「りっしんべん+昏」、第4水準2−12−54、216−7]々《こんこん》として臥床《とこ》の上に倒れぬ。
医とともに、皆入りぬ。
九の三
医師は騒がず看護婦を呼びて、応急の手段《てだて》を施しつ。さしずして寝床に近き玻璃窓《はりそう》を開かせたり。
涼しき空気は一陣水のごとく流れ込みぬ。まっ黒き木立《こだち》の背《うしろ》ほのかに明るみたるは、月|出《い》でんとするなるべし。
父中将を首《はじめ》として、子爵夫人、加藤子爵夫人、千鶴子、駒子、及び幾も次第にベッドをめぐりて居流れたり。風はそよ吹きてすでに死せるがごとく横たわる浪子の鬢髪《びんぱつ》をそよがし、医はしきりに患者の面《おもて》をうかがいつつ脈をとれば、こなたに立てる看護婦が手中の紙燭《ししょく》はたはたとゆらめいたり。
十分過ぎ十五分過ぎぬ。寂《しず》かなる室内かすかに吐息聞こえて、浪子の唇わずかに動きつ。医は手ずから一匕《ひとさじ》の赤酒を口中に注ぎぬ。長き吐息は再び寂《しず》かなる室内に響きて、
「帰りましょう、帰りましょう、ねエあなた――お母《かあ》さま、来ますよ来ますよ――おお、まだ――ここに」
浪子はぱっちりと目を開きぬ。
あたかも林端に上れる月は一道の幽光を射て、惘々《もうもう》としたる浪子の顔を照らせり。
医師は中将にめくばせして、片隅《かたえ》に退きつ。中将は進みて浪子の手を執り、
「浪、気がついたか。おとうさんじゃぞ。――みん
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